でも「絵」を描こうすると描けない。
描くのは「描こうとするもの」であって絵ではない。
描こうとした結果できあがってくるものが絵と呼ばれるだけであって、はじめから「絵」を描こうとすると絵にならない。
(自分もよく失敗する。)
技術や方法や形式は関係ない。一度、絵が描けたからといって、同じ方法を辿っても、また絵が描けるとは限らない。
一回性。
でも世の中にはそうでないものの方がたくさんある。
社会は効率と再生産性だから。
子孫を残すってことも詰まるところ一種の再生産なのだから仕方ない。
むずかしい。
でも、やっぱり自分の生は一回性、コピーみたいな再生産的な毎日で満足というわけにはいかない。
]]>
AIの労働力についてはいろんな意見あると思うけど、
ただし、収入源を補う仕組み、
でも今の自分にも直接関わるのは娘の将来と、あと、創作内容。
クリエイティブな仕事はAIにはできないとは全く思わない。
問題は"目的"だと思ってる。
"新しい感性で、新しい価値観を提示する"
じゃあ絵描きも廃業か?そうとも言えるけど、
さしたる目的もなく創作活動に没頭できる(してしまう)
人は何のために描くのか。
金のためではないし、はっきりした目的すらない。
描きたいから描くのだ。
もし仮にAIも同じように、描きたいから描く、
杉浦日向子さんというのは初めて知ったんだけど、どことなく貫禄ありますね。観音様にかぶって見えるのは荒木さんの写真のせいばかりじゃないんだろう。観音様に「貫禄ある」って喩えはどうかな、別にして。
荒木さんに切り撮られた観音様は俗世にまみれて、ときに同化して、ときにハレーションを起こして、まさしく泥の中の蓮の花。街かどやらビルの影やら猫やら雑踏やらに混じって写っている。
「もともと観音は変化仏であり、衆生の声に応じ、卑近な姿となって俗世へ降り、これを救済する。観音は、人とともに喜怒哀楽の情をあらわす、いわばまだ悟りのきわみにいたらぬ修行途上の仏だ。それだから、仏くさくなくて、むしろ人くさい。」(『東京観音』杉浦日向子)
写真を見てると、旅に出たいなあって気持ちになる。近所の散歩だって時には旅になるのに、行けないときは行けないもの。外に出ないことには観音様も外の世界も見えてこないのは当然。そんなときにどうしようもない気分になるのかなって思う。
どうしようもない気分の発端は、「改正組織犯罪処罰法」なわけだけど、その発端の根本を探っていけば、観音様にもすがりたくなるような(嘘)どうしようもない人類の業にしか行き着かなかったりして、いつのまにか、どことなく時空が歪んだように感じられたりする。それもそもそも自分が籠もってしまっているからなのかもしれない。外に出ないとね。
ネットでは、ちょっと偏った(一般の人の)コメントも散見されて、そういう人たちを詳しく見たりすると、やはりこれも引き籠もり的な、閉鎖的な人格が見えてきたりして、やっぱり籠もってはいけない。政治の話もオープンに気軽に人と話せばいいんだろうなと思う。経験上の話でもある。
なぜ時空が歪むのか。いや、時空はもともと歪んでいて、そのことに改めて気づかされる、と言ったほうがいい。「東京観音」の中で杉浦さんが書き記した言葉がある。
「光陰矢のごとし、なんて、うそだ。時間は一直線に過ぎてはいかない。寄せては返す波だ。今来た波と、次来る波は別だけど、寄せては返し、そして、えんえんとつづく。昨日は今日の過去で、明日は今日の未来だ。この世には昨日も明日もなく、えんえんと今日がくり返される。吸っては吐いて、泣いては笑って、環(わ)をめぐる。生は死のはじまりで、死は生のはじまりだ。果てしないね。また、いつか、どこかで。」(『東京観音』杉浦日向子)
「因果応報」とか言うとなにか分かったような気分になってしまうけど、そこに知覚される、されつづけるものというのはやっぱりあって、なにかがくり返されてる。遠く未来に見える自分の背中は、過去の自分のものかもしれない。
”歯車がぜんぶきれいに噛み合って、法律がテロを、テロが戦争を、戦争がお金を、お金が平和を運んできたとしても、今いるこの場所の空気はなにも変わらないでありつづけるような気がする。”
おかしな表現だけど、自分が感じた歪みというのは、こういう感じ。なにも変えられないっていう諦念ではない。
結論なんてないんだけど、あえて言うなら、56億7千万年先の未来に人を救うという、観音菩薩ならぬ、弥勒菩薩、その果てしない未来の弥勒の背中は今現在の人間一人ひとりのものかもしれないなって思うこと。とくに勝ちもしない負けもしない、ただ闘いつづける今日があり続ける感じ。
(でも、くり返す時空はまったく同じというわけでもない)
]]>そのおかげでアイデアが出ることもあるが、このごろは将来のことを考えてイヤになる。
それでもそうやって考えたことや思ったことはこうして書きたくなる。たしか昔はもっとどんどん書いていたが、このごろは書いても書いてもうまく書けない、というか、うまく書けていないことに気づいてしまうので、あまり書かない。
それでも、書くとなにかを吐きだしたようことになるんだろうか、すっきりするので、これはやはり抑鬱、デプレッションの反対、つまりエクスプレッションなのだと思う。
もともと考えるから吐き出すべき内容が喉の奥なのかどこかに溜まっていくのだから、考えたすえに書いたり描いたりして吐き出すというのは、必ずしも生産的とはいえない気もする。それどころか、吐き出す内容を喉の奥なのかどこかに溜める行為をするかわりに活動して行動するとたくさんの行為となって、それが生産というものではないか、や、機械的なそれではなく創造というものもそうなのだ。
心は考えないときのほうがよくものを見る。感じると思う。
今朝見た夢はよかった。
奈良美智さんが猛スピードで自転車でこちらに走ってくる。こちらも全力で自転車を漕いでいる。猛スピードですれちがいざま挨拶をした。奈良さんは元気そうだった。
通りすぎたあと、ふと、猛スピードで寒かったので自分の着ていたジャンパーを奈良さんにあげようと思いついた。自分も寒かったが、あげるという献身的な思いつきに自分で自分に感動した。夢だから。
大急ぎで大声で奈良さんを呼び止めながら引き返した。間に合わないかと思ったが、奈良さんにも通じ、止まってくれた。奈良さんはいい人だ。自分はいつもそう思っている。奈良さんはいい人。そして、奈良さんがいい人であるほど、自分はわるい人になっていく。だから、そして、つまり、奈良さんにあげたジャンパーは、自分のではなかった。それはもともと奈良さんのジャンパーだった。
奈良さんが行ってしまったあとには埃みたいにミドリのくずが散らばっていたので、ひとつのこらず探して拾った。手のひらいっぱいになった。いい人の落としていったくず。やっぱり奈良さんもミドリが必要なんだと思って安心した。(ほんとは奈良さんはお酒が好きなはずだから、事実とは違うとあとで気づく。)
そのくずを拾い集めたころにだれかがやってきて、分け前をねだる。よく知ってる奴だが夢だからどうも思い出せない。
あれはだれだっただろう。
夢はいい。夢をひきずって、朝にいちばん物思いに耽る。または書く。描く。そうしていればエクスプレッション。そうできなければデプレッション。
]]>
娘と行った図書館で、娘が本を探しているあいだ、借りるつもりもないのに手に取ったこの本の冒頭に出てくる女のあだ名が「ムムム」というのにひかれて、なんとなく借りた。
「ムムム」というのは、笑えなくなった女にお隣さんがつけたあだ名で、『機嫌が悪いのなら「ムッ」とした顔をすればいいのに、それを隠そうとするものだから、怒ったような困ったような眉をひそめたムムムという顔』になるから。
なんてことない小説だった。というと失礼だし、話も終わってしまうのだけど、なんてことない小説は、好きだ。
映画とかもそうだけど、小説も、割と冒頭のあたりで(たぶん自分にとって)おもしろいかどうかの判断がつく。言葉にするなら「辻褄があってる」というような。
地面があるから、足でその地面を踏みしめて立つことができる、そんなような当たり前のこと、そういう、なんてことない辻褄なんだけど、その積み重なりでできた、なんてことないもの。
「作ってるな」と白けてしまうものは、どこというのでもなく、でもはっきりと、辻褄が合ってない。創作なのだから基本ぜんぶ作ってあるのだけど。
「作って」ないもの、なんてことないもの、ただそれだけのことじゃないのかもしれないけど、そういうものにふれると、自分もなんかやってみよう、やれるかも、というような意欲が沸いてくることがある気がする。なぜだろう。
件の小説の中で、主要人物のテツコとギフ(義父のあだ名)は、夫(ギフには息子)を病気で亡くすんだけど、その夜の暗い帰り道、『寒かったし、悲しかったし、二人とも疲れきって口もきけなかった。その時、行く先にポツンと明かりが見えた。近づくとパン屋だった。』
『もう夜の十二時を過ぎようとしていたのに、中では昼間のように人が働いていた。テツコとギフが入ると、「もうすぐ新しいのが焼き上がりますよ」と店の人にいわれ、二人は待った。その時の二人は待つのに慣れきっていた。病院のあらゆるところ、検査結果を聞くための部屋や支払所、手術室、詰め所などで、ただひたすら待っていたからだ。』
『パンの焼ける匂いは、これ以上ないほどの幸せの匂いだった。店員が包むパンの皮がパリンパリンと音をたてたのを聞いてテツコとギフは思わず頬笑んだ。』
『悲しいのに、幸せな気持ちになれるのだと知ってから、テツコは、いろいろなことを受け入れやすくなったような気がする』
どことなく、この一節と意欲の源(みなもと)がリンクする。
AIの発達がすごくて、囲碁なんかも人間棋士のおよびもつかない棋譜で進んでいくらしい。無意味にしか思えない打ち手が最終的な段階でようやく理解できるというような。
だれかが「経営なんかもそうなるかも。意味わかんない合併やらなんやらが、最終的には大成功みたいな。」と言ってたが、創作の分野だってそうかもしれないと思う。
人間のすることは、創作だって、解析可能な過程を経たもののはずで、その「結果」においては、AIは人間を凌ぐと考えるほうが自然に思える。
でも、いくら解析可能であっても、人間にとって、創作にまつわる結果はあくまで結果であって目的ではない。忘られがちだけど。
創作する理由ってなんだろう、という本質的な問い。
目的なんかないんだよね、っていう繰り返される答え。
『悲しいのに、幸せな気持ち』
なんてことないけど、無意味かもだけど、やりたい気持ち。
件の小説の、夕子(テツコの義母、ギフの妻)の病床での気持ちの描写。
『今や、(庭の)銀杏の木と自分に境目はなくなりつつあった。モノというモノの名前が全て消え去ろうとしている。いつか、一樹(息子、テツコの夫)を抱いて庭を見ていた時に感じた、あの不思議な心持ちだった。それは、借りていたものを一切合切、ようやく返してしまったような気持ちのよさだった。」
名前という「意味」が、ときには目的にさえなったりもするのが社会なのかなって思うことがある。
そういう借りもの、かりそめを返してしまうと、あとに残るのは、意味やら目的ではなくて、さて、なんだろう。
]]>「なにそれ?」
「歩きたいとこ好きに歩きたいんだ。通行止めとか立ち入り禁止の看板あるだろ?あの先だって行けないことないんだよ。靴とか服とかちょっと汚れるけどね。川っぺりの石垣よじ登ったり、人ん家の庭とかかすめたりしながら。」
「やばいよ!」
「そう。人にみつかっちゃうと泥棒とか不審者に思われてやばい。でもオバケだったらあやしくない。」
「こわいよ〜!」
「でも見た人もあきらめつかない?オバケならしょーがないかって。」
「んー。。」
「大きくなるとみんなきれいな恰好して気取ってないといけないでしょ?そんな恰好してると立ち入り禁止のとこだって入れない。」
「だって立ち入れ禁止のとこ入ったってなんにもないじゃん。」
「うん。なんにもない。でもだれも歩かないとこ歩ける。大きくなるときちんとした恰好してないとそれだけで不審者じゃん?でもオバケになれば自由だぜ!人間だとすら思われないから夜中に塀よじ登っても平気だよ。ただし、犬には要注意。やつらは突然吠えてくるからやばい。」
「それで、そんなことして、あんた一体なにがしたいんだよ!」
「新大陸発見!」
]]>毎日描いてるはずの絵描き仲間に言われるとなおうれしい。
ところで、自分が「文章を書きたくなる」となるのは川上未映子である。
同じ関西人であることがそのいしづえにあるのかどうかは定かでないが、川上さんの文章にそのツボはあって、読むと作文欲求がほとばしるのである。
寝る前の10分間の、どうにも居たたまれないこの頃を慰めるべく、今日は図書館で川上氏のエッセイを借りた。そして借りただけで読んでもないのに、すでにほとばしる作文欲求が溢れ出ておそるべし。まさにいま、ものすごく久しぶりに文章を書いているのであるから。
このごろは文章を書かなくなってしまった。震災がきっかけだと思っている。
自分が震災で失ってしまったのは「文章」だった。
(せっかく書くのが好きなのだから)積極的に社会的な発言を書かねばならないという気持ちがはたらいた。しだいに文章も自分自身も堅苦しくなって、とうとう書かなくなった。
この「書かねば」は「描かねば」とも、もちろん似ている。
絵も文章もたのしいから描く(書く)のに、そこに「ねば」がやってくるのである。
そしてこれがなかなかふりほどけない。
「とはいえ、まじめにやってかないと日本まじでやばいから」と思うし、また、「まじめに描かないと自分の絵は家族の犠牲の上に成り立っているのだから」とも思う。まったくもって事実ではあるのだけど、「たのしい」を罪悪に変えてしまう同根のこの義務的感覚。
人の絵を見て、自分も描きたくなる気持ちは自分自身よく経験する。
そういう絵は描くのがたのしそうに見えるのである。
そして実際たのしくないわけもなかろう。
文章だって、たのしいから書くのである。
ほんとは伝えたいことすらないのかもしれない、とおもう。
絵も文章も。
ちなみに図書館では川上未映子といっしょに多和田葉子を借りてきた。
なぜか自分のなかには「この世でいちばんオシャレな本は多和田葉子だ!」という漠とした思いがある。
読むとちょっぴりねむくなる。
]]>ウォルトディズニーの魂を見るような、ほんとうに手間ひまと愛情のかかった作品だなあと感動した。
全編どの部分を取っても素晴らしいなあとつくづく思うのだけど、その中でも姫が継母の魔手から逃れるため森に逃げ込む場面から小人の家に落ち着くまでの場面に、僕はとくに感銘した。
まさにディズニーならではの恐ろしい森の悪夢が、白雪姫の、たったいま殺されそうになり、またそれが継母の指示だったと知り、悲しいやら恐ろしいやら、突如として身の上にふりかかった厄災とトラウマを、この森の悪夢が表現していて、ついに白雪姫はひれ伏して泣き崩れてしまう。
そこに森のかわいい動物たちが姫の悲しい泣き声に寄せられてやってくるのだが、びっくりした白雪姫に森の動物たちもびっくりして、森に逃げ込んでしまう。
そこで普通なら(少なくとも僕なら)かまわず泣き続けるか、せいぜい逃げ出されたことに余計悲しむくらいのことだと思うが、白雪姫はここで泣きやみ、自分はさておき、驚かせてしまった動物たちにごめんなさいと謝り気遣う心をみせるのだ。
さらに、ごく素直に自分の境遇を説明し、どうすればいいと思う?とまるで近所の道を尋ねるみたいに軽やかにやさしく尋ねる。そして唄えばいいのね!と受け止めて、鳥と一緒に唄い始める。唄えばそこに和ができて輪になって森のかわいい動物たちはみんな白雪姫と仲良しになってしまう。
それからその仲良しになった動物たちに案内を請うて、小人の家に辿り着く。そこで白雪姫は自分の得意な家事を活かす条件を見つけ出して仲間と一緒に唄いながら元気に取り組む。
結果、白雪姫は小人たちの歓迎を受けて自分の居場所を確保する。
この流れを見て、そんなことは話がうますぎると思うかもしれないが、こうだから白雪姫はハッピーエンドを迎える。その根拠がこの場面のなかに完全に表現されてあるのだ。
この流れはアニメを”美しく”つくるうえで必要な流れであるというかもしれない。いつまでもメソメソしていては話が進まないし、走るときはバレエダンサーのように美しく明るく走るほうがよい。実際、ディズニーの白雪姫の洗練された過不足なく表現的な動きはたぶんバレエダンサーをキャプチャーしたものだろう。
すべての動きが計算され尽くしたようでいてとても自然なのは、ウォルトディズニーの才能なんだと思う。真相は、ひとつひとつのキャラクターやその動きを丹念に描き、それらがもっとも理に適ったやり方でつぎの動きや場面を呼び込み連なってできていったのだろうと想像する。それは作品に対する深い愛情と情熱がなければできない。
そしてそれがそのままヒロインの白雪姫にも当てはまる。目の前のひとつひとつを大切に慈しむ白雪姫の姿はそれ以前の場面でも描かれている。鳥に話しかけることは超能力でも病気でもない、目の前の世界に愛情と好奇心を持って接していることの顕れでもある。
ひとつひとつの出来事に集中することで目の前の出来事に最大限の力で対処できるし、それがポジティブな気持ちから始まっているのなら、実際、唄もうつくしく響き、和もうまれる。だから白雪姫は大願を成就したのだと納得できる。そして同時にウォルトディズニーのこの作品がすばらしいことも白雪姫の成就も、当然にして相似的な関係にあるのだ。
そういう物語に僕は強く勇気づけられる。
それでも、大願が成就するのは稀なる美貌があったからというかもしれないし、同様に稀なる才能があったからこのような作品が作れたのかもしれない。
それはたしかにその通りだと思う。誰にでもこんな作品が作れたりはしない。いや作れる必要がないのだ。成就するものがどんなに小さなものであっても、実際のところその大小は関係ない。ただやりきった充実感だけが誰にも平等に、や、白雪姫のようにポジティブに受け止める人間により多く、やってくるということだけが問題なんだろうと思う。
]]>近所にみつけたお米の自動販売機で買った。目に入ってはいたんだけど精米器かと思ってたら販売機だった。5キロ千円って安いから。
ふつう記されてるはずの産地表記がないとなんだか心細いご時世で、そのちょっと不安な感じがあるからかどうなのか、米の味がイマイチで心細い。
安いだけあって古々米とか古々々米とかなのかな。震災以降の不安のほうも浮かぶんだけど、実際そっちのほうは味には関係ないよね。でも作り手がすっかり元気なくなっちゃって味にも影響することもあるのかなあなんて、もうすっかり空想。
でも、そういう不安な気持ち、感情とか、そういうものがいろんなものに影響してる。ぜんぜん別の問題なのに、空想的な気持ちに感情がはたらいて、ほとんど暴走みたいに無関係の方角へと突っ走っていく感じ。
感情つまり気持ちのゆらめきのようなものは絵描きや芸術家なんかには必要のように思われるかもしれないけど、実際に必要なのは感じることとそれを見つめる目であって、感情のほうは邪魔にしかならない。パッションというものには役に立つこともあるのかもしれないけど。
そんな結構無用な感情が、ふつうならあるはずの産地の表示がないとそれはそれはドキドキして、産地がわかるとやっぱり少しホッとする。でもいつでも産地が分からないと不安かというとそうでもない。食品になってる原材料の産地まで僕はあまり気にしないし、それでいったら産地どころかその材料がいったいどんなものなのかよくわからないものが入っていても案外平気だったりする。
ふだんの表示の事情しだいで、それに慣れちゃってる。いつもある表示がなければ不安になるし、なければないで、それがいつもの事情であれば気にすることもない。かなしいとこに日常感覚なんてその程度だったりする。
その程度の日常感覚に日常的に感情がついてくる。理性で抑えているけれど、感情は世の中のいろんな事情に流れて右往左往して渦巻いてる。ほんのふとした拍子にそれが噴出する。
世間のあっちこっちで噴出する感情が右往左往して、炎上したり計画が中断したり。でもどこで噴出するんだか、実はだれにもわからなくって対処のしようもない感じ。でも自分自身の感情の噴出を見ていると、そんなに気にするほどのこともないなあと思ったり。なんせ暴走する感情のほとんどは空想なのかもしれないし。
どうせ打つ手もないのなら、気にせずのびのび行こうかなって思います。
]]>ネットというものがこのように人も殺しかねないほど自由だってことかなって思う。気持ちとしては同情が強いかも。
このことについて、いろんな人がずっと話題にしてる。おもしろいんだと思う。ワイドショー的にというより、ネット社会や時代を映す鏡になってる。いろんな視点から問題を切り取れる。だから自分も書いてみようと思う。
僕も検索画像を元にたくさん絵を描いている。
基本的にモデル代わりに使うけど、特に新しいシリーズの描き始めなんかは画像の影響を強く受ける。パクりの範疇かもしれない。
0から作り上げるものの魅力はやっぱり大きい。
ちょっとでもパクりが入っていたら気持ちは冷める。
いくら理屈を言ったって感じることは止められない。
その感じがふつうにみんなにあったと思う。
でも0からはたいへん。
どんな偉人でも先人の智慧を借りて自分の仕事を進める。
まさかこの人の作品にも元ネタがあったなんて、、という落胆はだれでも一度はすると思う。
自分のことでいうと、人物のポーズほんとむずかしい。
考えて試行錯誤して、結局昔ながらのポーズや配置がいいんだと気づかされたり、検索画像の何気ないポーズが逆にぴったりきたりする。
人物にしろ背景にしろ想像だけではなかなかうまく描けない。
どっちにしても、ネットの力を借りて仕事を進めることは悪くないと思う。
目的がそこでなければ。
(佐野さんの仕事からは目的がまるで見えてこないからいけなかったんじゃないかと思う。)
”サンプリング”は僕にとって黒人音楽がレコードを楽器にしたことから始まっているので基本OKだ。クリエイティブだと思う。お金もかからない笑。
表現したいものがサンプリングしたものとかぶらなければクリエイティブだと思う。(佐野さんの話ではない。)だれにでもチャレンジできるというのもクリエイティブだ。
いま、検索画像を使わないなんてソンだと思う。
けど、だからこそ使わない、のももちろんいい。
画像や音源がいろいろ簡単に使える、などの「社会的な条件」というのは関わり方しだい、使い方しだいで、使っても使わなくても時代を表現できると思う。
ただ、その条件をなかったかのごとく排除するのはクリエイティブじゃないと思う。
新しい時代の条件はどんどん受け入れていきたい。受け入れたうえで否定するのはおもしろい。
否定的なものを肯定的に捉えていくのはおもしろい。
有名な人は一度はかならずネットの炎上を経験するらしいけど、はじめのうちは炎上って避けたいものに思えてたけど、いまではあまり深刻に考えない。たかがネットでのことだし。
炎上商法したいなのも出てきたし。
だからってわけじゃないけど、佐野さんもたいしたことなければいいと思う。
とにかく否定的なものがそうでなくなって、世の中の価値が変質していく感じは見ていてもおもしろい。
「盗用問題」も、これを機会にサンプリングのあり方にひとつのラインが見えたのかもしれない。みんなの納得するサンプリング、直感的に受け入れられない下手なサンプリングという境界。それが見えたことでサンプリング文化がまた成熟するかもしれない。
たぶんデザインやらサンプリングやらに関わる人の多くが自分を見つめ直したと思うし、僕もそう。正か否か、自分のライン引きを引き直すいい機会だ。そこから次のアイデアも出て来る。
あと、話がちょっと変わるけど、画像検索で出てくる画像って世界のごく一部。膨大で無限のようでいて、世界のほんの一部の時代と場所が映っているだけだと思う。
その画像イメージがたとえば「山」のパブリックイメージを決定していたりすると思う。
人の顔などでいえば、たとえばマリリンモンローやエルビスなど、や、数え上げたらキリがないんだけど、それでも人の顔の全部でいったらごく一部が代表している。
そしてその多くが50〜80年代の画像な気がする。テレビ時代。それ以前以降もあるけどピークじゃないかと思う。アンディウォーホルなんかの時代。ウォーホルが示したように80年代はコピー時代の幕開けだった。そして、実はそれまでの時代で「オリジナル」はほとんど出尽くしているんじゃないかとも思える。あとはモンローの顔をコピーし続けるだけ。
僕たちは時代の晩年、コピー反芻の時代に生きている感じがする。
ただ、状況としてはコピーし続けてるだけでも、そのコピーはモンローの顔を解釈し続けるってことであって、クリエイティブだし、悪くはないと思う。(佐野さんの話ではない。再度)
]]>30枚一組の絵を1ピースごと30人の持ち主の中でピース同士を交換してもらって交流してもらうっていうGIFTという企画から始まったブログで、30人の方々の掲示板みたいなつもりで始めたんです、元々は。
でも結果、企画は進行せず、ブログはわたくしSal専用のブログみたいになっちゃってる。
一応、絵描きなので、表現者としての立場から個人的に思うことをそのまま素直に書いています。企画は中断しっぱなしでも自分が責任とれるのは、このブログを続けることかなと思って。
でも、最近はSNSとかで、ブログを投稿するっていう気分が出て来ず、投稿もご無沙汰になってる。文章書くのは好きだし、せっかくなら読んでほしいのでFBとかにブログの気分半分で投稿したりしていて、文章を書かなくなったわけではない。
それでも、ひさしぶりにアクセスログを開けてみると、今でもページを閲覧してくれている人がいるみたいで、とてもうれしかった。
少ない日もあるけど、たまにたくさんになっていたりして、「やっぱり続けていきたいな」と思った。
だからというわけでもないんだけど、この10年間、ブログに投稿した文章で、いいのを選んでジンかなにかにしたいなと思う。画集もだしたことないのに、文集みたいな感じで文章を本にしたいなって思う。じっさい画集出すより情熱があるかも笑。
手作りで文集。つくりたい。
]]>ときどき、(* )の原文を勝手に置き換え↓
-
(前略)
三木「今にまたドストエフスキーなんかが流行る時代が来るかも知れないね。」
小林「うん、どうもやっぱり、ああいう人の困った問題というものは永遠の問題だから。」
三木「人生の謎というものはいつも同じだね。」
小林「やはり同じところに立ち返ってくるのだな。」
三木「人間というものは進歩しないね。科学が発達すれば戦争が無くなるとよく人が言っていたが、そんなことは嘘だということは、今度の戦争で証明されたわけだ。なにしろそういうものだな。進歩の思想は人間を浅薄にする危険があるね。」
(中略)
三木「(前略)今日教養といっているもので本を沢山読んでいるとか、ものを沢山知っているということが特別のことでなくて、なんでもない当たり前のことになってこなければならん。そういうものがほんとの知識人でないということがわかってこなければならんと思う。ところが、今ではまだそれが何か特別のことのように考えられているんだね。」
小林「そうだな。だけど、青年というものは皆そういうものは持っているという気がする。真の教養なり思想なりの芽生えというものを持っている。持っているが、それが育たない。芽が伸びないところがある。大人になるといろいろなことで摘んでしまうね。小説家になって摘んでしまう。評論家になって摘んでしまう。科学者になって摘んでしまう。それから俗人になって摘んでしまう。そういうところがあるよ。」
三木「結局、一番欠乏しているのは実験的精神だと思う。」
(中略)
三木「近代の科学者は教養人というものと違う。読書が学問であるという伝統を変革したところに近代科学のえらさがある。その精神は教養というものとは違うもっと原始的なものなんだな。そういう精神を、科学ばかりでなしに、ほかのものにおいてももっと掴まなければならないのじゃないかと思う。」
(中略)
三木「現代人(*近代人)の弱さというのは、ネット(*新聞)を読むね。ネット(*新聞)に出ていることで自分に関することはたいてい嘘が書いてある。それだのに、ひとの事が出ていると誰でもそれを信ずる。そういうところに現代人(*近代人)の欠陥がある。ものにぶつかって究めるということが少ないわけなんだね。」
小林「どういうことろからそういう論を立てるかね。」
三木「それは今言ったように世界共通のものだが、特に日本人の欠陥でもあると思う。というのは本を読むことが学問だというような観念がなかなかぬけきらないのだね。昔から支那のことをやるにしても、支那へ行かないで支那の本を読んでやる。全然西洋を観たことのない人間が西洋の本を読むだけで西洋について論じる。アメリカへ行ったことのない人間がアメリカ文学の専門家で通る。そういうところがあるね。知識というものはそういうものだという考えがあるから、逆に言えば日本の現実について研究しなくても済む。つまり知識が主としてネット(*読書)から得られるので、現実(*事実)にぶつかってそこから出て来るものではないのだね。(後略)」
小林「感覚の鈍りだ。はっきりものを見ないのが根本だ。」
三木「その見ているところから、ものを考えるということが実験的精神というものじゃないかね。」
(中略)
小林「実証精神というのは、(中略)なにもある対象に向かって実証的方法を使うということが実証精神でないよ。自分が現に生きている立場、自分の特殊な立場が或る仕事(*学問)をやるときにまず見えていなくちゃならぬ。俺は現にこういう特殊な立場に立っているんだということが或る仕事(*学問)の仕掛けにならなければいけないんじゃないか。(中略)そういうものを僕は実証的方法というのだよ。」
三木「その通りだ。精神とか態度とかの問題だね。誰でも自分だけがぶつかっている特殊な問題がある。そういうものを究めてゆくことが仕事というもの(*学問)だ。ところが仕事(*学問)というものは何か決まったものがあるように考えられている。(後略)」
(中略)
小林「話は違うが、どのくらい人間というものは、いろいろ夢を見たがるかということが、僕は近頃なんとなく分かってきた。齢をとるとーーそんなこと言う齢ではないんだが、、、死期が近づくと、、、。やはり死期というのは確かに近づいておるのだね。妙なことだ。そんなこと別に考えないけれど、やっぱり死期というものはちゃんと近づいておるのだね。」
三木「遺書を書く、遺言状だね、遺言状を書くという気持ちは、今の人(*作家)にもないね。」
小林「ないね。」
三木「これを一つやって(*書いて)しまえば死んでもいいという。」
小林「実際ないのだよ。」
三木「僕なんかもこの頃よくそういうことを考えるね。これ一つやって(*書いて)おけば死んでもいいという気持ちでやらなければ(*書かなければ)駄目だね。実際いつ死ぬかわからんのだからね。というのは、すべてのものが現象的になって、形而上学的なものが失われてしまったのだ。永遠というものを考えなくなっている。」
小林「そうだ。僕なんかもそう思っているのだけれど。永遠の観念というものがなければ、芸術もなければ道徳もないと思っているのだ。そういうような考えは青年時代に懐いたけれども、僕はいろいろなことで自信がつかなかった。段々自信がついてきた。そういうものが一番本当だということが、、、。一番そういうものが確かだ。本当に空想じゃなく確かだな。そういうことに段々自信がついてきた。」
三木「進歩の思想に立つと、どんなことでも少しずつやればいいということになる。十あるもののうち今日は一つ書いておいて、明日また一つ書けばいいというような考え方が毒していると思う。これでおわりということになれば、十もっておれば十出さなくちゃならぬ。これは生活態度においてもそうだと思う。」
小林「そうだよ。例えば弾圧ということを言う。どうしてそんなことを考えて、自分が十五年先に死ぬということを考えないのだ。十五年先に死ぬということは大弾圧でないか。そんな大弾圧が必ず十五年先に来るのを知らないで、政府が何を弾圧したということの刺激で何かの思想が起こっているのだよ。まあ言ってみれば、そういう風な思想の浅薄な起こり方、それがいやだね。現代の思想は、いったん石器時代に戻って、またそこから出直す必要があるとさえ言いたいくらいだよ。」
三木「ある人がいて、弾圧されるかもしれないと考えるだろう。その場合に、これ一つやって(*書いて)おけば弾圧されてもいいと思ってやる(*書く)か、あるいはまだまだ弾圧されないかもしれないというような気持ちが底にあってやる(*書く)か、その点だね。弾圧されるということを本当に身近に感じておれば、これ一つしかやれない(*書けない)と命がけでやる(*ものを書く)。そういう気持ちになってくれば日本の文化も立派になるというのだろう。」
小林「文学者や思想家が政治的関心を持つことは結構だが、関心を持つと考え方まで政治的になるということはバカバカしい。政治家がさしあたり大切なことだけを考えるのはよいが、思想家がおよそ思想上の問題でさしあたりの問題でさしあたり大切なものは何かなぞと考えるのは止めたがよい。話がおめでたくなって、議論がこんがらがる以外に何の益も断じてない。」
三木「結局便宜主義ではほんとの文化は創られない。」
(後略)
-
個人的にはこれひとつ描けば死んでもいいわって思えるところにちっとも近づけないことに日々ふるえてるわ。
]]>コラージュ画像のニュースを見て思わず、はっとした。
事件とは別のところで、心が躍ったというか。
無条件に「いまを浮き彫りにしたもの」に気持ちが反応した。
「日本人はここまで感情が劣化している」。
他者の気持ちに共感できない、しにくい、いまの日本を、なんていうかものすごく直接的な感じで表現したと思う。結果的に。
やったのは一部の劣化の激しい人たちだと思う。
ただ、そのほんの一部がネットによっておそろしく肥大して社会の空気に影響してる感じ。
政府のオラオラな気分が無自覚のうちに火だねを作ってしまう、
そんな今回の状況も、政治家の「感情の劣化」が一因だと思えば、コラージュ画像の一件とつながって見える。
この民度にしてこの政府。矛盾がない。
海外一部メデイアでは、このコラージュ画像がテロリズムの深刻性を破壊して、結果良かった、と解釈するところもあるらしい。
たしかに結果的にはそういう部分もあると思う。どこか痛快だったとも思う。
けれど、もう少し冷めて見れば、もちろんこれは、意図された、アーティスティックな(固定観念を崩壊させる)活動なんかではなく、一部のネットユーザーが現実と虚構の境界を失っているせいで、ほとんど偶然に起きた社会現象みたいなものだと思う。
(現実と虚構が並列するときの滑稽さが、テロリズムの深刻性を破壊したわけで、もしかしたらこのことを直感的に狙った人もあったかもね。でもやっぱり偶然性が強そう。)
現実と虚構。
文章や画像で構成されたネット上の虚構は、あくまで現実の部分的な”解釈”であって、それを現実と誤認すると、現実に対する理解や共感の深度はとても浅くなる。すぐに底にぶつかる。まして、その虚構を国語的に(または本質的に)十分咀嚼できてない場合は、目も当てられない。
現実に対する理解、共感の欠乏したネット世論が、現実の社会、政治を突き動かしているとしたら、こわい。
ぼくは論理の目と実存の目をもっているけれど心の目をもっていない、
あなたは実存の目と心の目はもっているけれど論理の目をもっていない、と。
]]>極楽について検索していると、ケルトの「メルグル」というものに遭遇した。「喜びの平原」という意味らしい。
CLANNADというゲームの話みたいなんだけど、ゲームをはなれて「極楽浄土」と「理想郷」の違いを説明しているともいえるもので、その内容が腑に落ちる文章だった。
↓
http://ahou2chome.sakura.ne.jp/misc/zakkisel/051001.html
要約すると、「メルグル」というのは一見、天国、極楽浄土のようなところだけれど、ケルト神話の一節によると、「永遠の命・永遠の若さ・永遠の美を手に入れるところ、食べてもなくならないリンゴや、女しかいないところ」で、天国、極楽浄土を想像するときに、例えばある宗教を信仰していた人が「神」によって生前の罪過を洗い流され、イノセントな状態であるというイメージがあるのに対して、むしろ逆の、欲望にまつわるところである、と言っている。
あらためて「極楽浄土」というものを考えてみると、案外「理想郷」との違いを意識していなかったことに気づく。
「食べてもなくならないリンゴ」は、働かずして食べ続けられる魔法のリンゴだ。たしかに働かずに食べれるなら、極楽と言えそうだけど、本来の極楽はそういうことではなくて、いっそ、「楽」の字が付いているから混乱するので、楽をとって「極」とだけすればいいんじゃないかとも思う。
少なくとも、「原点」というものを探していたときに浮かんできた、僕のなかの「極楽」とは、「働かず食える」意味合いの「楽」な場所ではない気がする。
「メルグル」についての文章にもあるように、極楽浄土は「イノセントな場所」であると考えている。
じゃあ、そのイノセントとはなにか?その詳細は?ということになるんだけど、僕は「原点」からそれを思い浮かべたように、人間の、もっといえば生命の「初期設定」的状態じゃないかと想像する。
そしてその「初期設定」的状態とは、動物も植物も人間も(「神」的な秩序のもとに)一直線上に並列して見なせる状態じゃないかと想像する。
じゃあ、そういう状態がどういう状態?かというと、人間が感情や打算抜きに目前の案件の本質に沿って行動できる心的状態じゃないかと僕は考える。
それは、一般的に思い描かれる子供の行動のイメージにも似ている。
その状態は筋肉の弛緩した状態というよりは、躍動している状態だと思う。
以前、軽い地獄絵図的な絵を描いたことがある。そして、いま自分なりの「極楽」をイメージしてみて、その基本のところの似ていることにびっくりする。
地獄のような場面でも生きようとする人たちを描こうとした”地獄絵図的”な絵だったけれど、彼らの姿勢と、極楽で生きる人たちの姿勢が、僕のなかでまったく同じイメージになっている。
死んだあと行くところなのだから「極楽で生きる」というのはヘンかもしれないけれど。
「天国も地獄も気の持ちよう」みたいなことではないと思う。「表裏」ということかもしれない。
そう思うと、僕が子供のころから持っている「極楽」のイメージは、昔のおじいちゃんやおばあちゃんが「ごくらく、ごくらく、、」と唱えるあの「極楽」のイメージであったのかなあと思う。
あらためて、古い極楽浄土図や天国についての宗教絵画を見てみると、そのどれも、神たち(超人的なイノセントで神化した人たち)の躍動的な姿が写してあった。
]]>(岩波文庫、斉藤信治訳を参照しつつ独自に書き出し)
(岩波文庫、斉藤信治訳を参照しつつ独自に書き出し)
「絶望せる偏狭性は根源性の欠乏である。言い換えれば人間が自己の根源性を奪い去られて精神的な意味で去勢されている状態である。
どんな人間も、根源的に自己自身たるべく定められており、自分自身となることが使命である。
さて、自己はありのままの状態ではすべて角のあるものである、けれど、だからといって自己はなめらかにすり減らされるべきだとはならず、それはただなめらかに磨き上げられるべきである。
人間は、人間を怖れるあまり自分自身であることを放棄することがあってはならない。いわんや他人に対する恐怖だけのために、自己がその本質的な偶然性(これこそすり減らしてはならないものである)のままに自分自身であろうとすることを放棄してはならない。
人間はかかる本質的な偶然性のなかでこそ自己自身に対してまさに自己自身なのである。
人間は絶望の一つの仕方において無限者のなかに迷い込んで自己自身を失うことがあるとともに、絶望の他の仕方において、彼はいわば自分の自己を「他人」から騙し取られるのである。
そのような人間は、自分の周囲の人びとを見、あらゆる世間的な事柄との関係のなかに入り込み、世間がどういうものか理解するに及んで、自己自身を忘却し、自分の名前(この言葉の神的な意味において)さえ忘れ果て、自分で自分を信じる気にもなれず、自己自身であろうなどとだいそれたことは考えず、他人と同じようである方がずっと楽で安全だと考えるようになる。
こうして彼は群集のなかで、一つの単位、一つの符牒、一つのイミテーションに墜落するのである。
絶望のこの形態に、世間は全くといっていいほど気づいていない。こういうふうに自己自身を放棄する人は、まさにそのことによって世渡りの骨(コツ)、否、世間で成功する骨(コツ)を体得するにいたるからである。
こういう人々の場合、彼自身の自己とその自己の無限性への努力が彼を邪魔したり、煩わせたりすることがなくなる。彼は小石のようになめらかにすり減らされており、貨幣のように通りがいい。
世間は彼を絶望していると見なすどころか、人間はかくあるべきものと考えるのである。一般に世間はほんとうにおそるべきものの何たるかを全然理解していない。ただひたすら生活に何の支障もきたさない、生活を安易で愉快なものにするような絶望を、全く絶望と見なさないのはむしろ当然である。
世間の考えがこういうものであることは、なかんずくほとんどあらゆる格言(それは大抵、処世訓にすぎないが)についても窺える。
例えば、「饒舌には十度の、沈黙には一度の後悔がある」といわれる。なぜか?口に出して言ったということは、ひとつの外的な事実であり、それ自身ひとつの現実であるから、それは人をいろいろな煩いに巻き込みうる。けれどもし口に出さなかったとしたら、そうはならない。
実はこれこそ危険極まりないことである。というのも沈黙は人間を全く自己自身へと孤立せしめる。そこでは現実がやってきて彼の世話を焼くということがない。現実が彼の言葉の結果をして彼を罰するというようなことがないのである。
しかり、そういう意味では沈黙は決して危険を孕んでいない。けれどまさしくその故に、おそるべきものの何たるかを知る人は、その進路を内側にとって外に何の痕跡も残さないような罪をこそ怖れるのである。
また、世間の目から見ると冒険は危険である。冒険には失敗の可能性がつきまとうからである。冒険しないことこそ賢明である。しかし我々は、冒険すれば(いかに多くのその他を失おうとも)容易には失わないものを、冒険しないためにかえって安々と失うことがあるのである。すなわち、自己自身を。
少なくとも、冒険する者はかくも安々と、まるで何も失われはしなかったかのように安々と、自己自身を失うということはない。もし私の冒険が間違っていたとすれば、そのときはそのときで、人生そのものが私を罰し、同時に救ってくれるだろう。
しかし、もし私が全く冒険を試みなかったら、一体誰が私を救ってくれるだろう?ことに、もし私が最高の意味での冒険(それは自己自身を凝視することにほかならない)を避けて通った卑怯さのおかげで、あらゆる地上的な利益を獲得できたとして、自己自身を失うとしたら?
有限性の絶望というのはまさにこういうものである。このように絶望している人間は、そのためにかえって都合良く世間のなかで日々を送り、人々から賞賛され、重用され、名誉ある位につき、そしてこの世のあらゆる仕事に携わることができるのである。
世間と呼ばれているものは、もしもこう言ってよければ、いわば世間に身売りしているような人々からだけで出来上がっているのである。彼らは自分の才能を利用し、富を蓄積し、世間的な仕事を営み、賢明に打算し、その他いろいろなことを成し遂げて、おそらくは歴史に名が残りさえする。
しかし、彼らは彼ら自身ではない。彼らが他の点でいかに利己的であろうと、精神的な意味ではなんらの自己をも所有していない。」
]]>乾いた気分に一瞬のうちにうるおい。
見ているのは、人の生活のあわいのようなもので、軒先の道具や洗濯物や戸の隙間から見える居間や家人の姿、それから畑や田圃のあぜ道にもそれはあって、ひいては木や山、空の鳥までもが関係してくる。
そういうものが全体で命のつながりとして見えて、人間が一人じゃないと思い出させてくれるのだろうと思う。もっとも、そのつながりの外側にいる傍観者こそが自分であるのだけれど笑。
そして、久しぶりに山を歩いた。
山の神社といえば、山の鎮守の主であって、そこら周辺のなかでも重要スポットだろうと思う。
神社は比較的古く変わらず存在する「少し奇異」な場所なりモノなりが祀られているところ。昔に起こった出来事から発生する神社もある。それらが祀られて長い時間が過ぎていく。時間の流れの止まった場所だ。
そういう所であるから、その土地を歩くならあいさつしておく場所、もしくは情報を得る場所だと僕は思う。周囲の歴史を見てきた場所だから。
神社では二礼二拍手一礼するけれど、僕は手を合わせている間、社と周囲に耳をすますことにしている。「目の前に集中する」原則が自分にあるからなんだけど、要するに目の前を観察することに集中するわけだ。
けれど、なにかを感じたことはない。神社の主に話しがあるわけでもないので、鈴をならすこともあいのだけど、このときの散歩では境内に登りながら、鈴を鳴らしてみようと決めていた。
他にだれもいない山の中の小さな神社である。雷神社という。境内に上がったとたん、周囲の松や、ヒノキが竜のようにうねりながら天を突くのが目に入った。小さな質素な神社だけど、雷神社だった。晴れた初秋の夕暮れだった。
僕は今回、神社に話を聞こうとしたのであった。今まで神社は自分がなにかを要求する場所でしかなかった。転じて今、神社の話を聞いてみることにしたのである。
つまりは社と周囲に耳をすますことなのだけど、今までと違う心境のなか、僕は耳をすますことをやめた。五感に頼ることをやめたのである。
いまだかつて神社の声を聞いたことのない自分が、神社の声を聞くためにこれまで使ってこなかったものがあるはずである。それは五感以外のものであると思えた。
眼で見たり、耳で聞いたりすると、いろいろな感情も湧いてくる。立派な木を見れば荘厳な気持ちになるし、奇怪な音を聴けば緊張が走る。
夜であれば恐怖でそれらを感じるだろうし、明るいときとは気持ちのあり方も違ってくる。
そういったものから離れてみたい。
心の眼というものを聞いたことがある。ちょうど眉間の上にそれはあるのだと、その人は言った。それは眼球で見る眼ではなく、心で見る眼なのだそうで、それを今、神社の前で思い出したのである。
社の鈴を鳴らし、丁寧に二礼し、慎重に二拍手し、集中の時間に入る。眼を閉じ、周囲の音を忘れ、心臓の部分に集中してみる。
と、なにも起こらない、なにも見えない。
そんなものだろう。
でも僕は大事なことに気づいた。
神社に話を聞く姿勢と、心の眼をイメージすること。
どちらも「心を開く」ことなんだろうなと思う。
いまだにできない自分である。
]]>娘が八才になって、あとはうまくやってくれと願うばかり。
]]>伝えたいのはその論理とかじゃなくて、肌触りのようなもの。
その肌触りを再現するためだけに細心の注意を払って、画面なりを構成する。
その”肌触り”がどこから来ているのか、なにを示しているのか、たいがいは心のなかで気づいている。
ただ、言葉でそれをはっきり説明するのは難しいもの。
それでも、その肌触りをくりかえし吟味するうちに、自然と言葉になることはある。
論理的な説明ができるようになることはある。
震災後。
震災で瓦解したなにか、回復しないといけないなにか、がんばりどころ、みたいなものを僕なりに懸命に考えた。
その結果、いちばん根本にあるのは、生活者一人ひとりの、社会に対する”依存”だと思い至った。
僕は”実存的な生き方”を基本に生きている。
かんたんに言えば「いまこの瞬間に集中する」という作法に尽きる。
それは目の前の現実に向き合うことで、その所作は自分自身の眼で見、行動しなければ始まらない。
この点で、僕は社会の現状に対して、なにか言うことができると思った。
僕の文章はすべて”実存的な生き方”を基点にしている。
それを、より論理的な言葉で、だれもが理解できるよう努めた。
間違っているかもしれないが、とにかく論理的に言葉にしてきた。
でも、その作業は自分が進む表現の方法とはズレている。
僕が描いているのは、肌触りである。
肌触りは説明することができない。
肌触りは、”いま目の前にある、目の前で起こる”感触だ。
あとから、”肌触り”を吟味して、根本の骨格を論理で説明することはできるかもしれない。
が、その骨格には元の肌触りはない。肌触りとはそういうものだ。
震災後、僕が言葉にしようとしてきたことは、もしかしたらほとんどの人が知り尽くしている事柄なのかもしれない。
知っていて、それでもそれを信じて行動できないものなのかのかもしれない。
僕にとって、社会の現状は最悪に近い。
そして僕はいま行動すべき事柄を手に入れた。
その行動の中身を言葉で説明することはできない。
それは肌触りと同じだ。
言葉になるのはあとのこと。
]]>それは、小さな子供でも、貧困無学の死刑囚でも、なんの垣根もなく体得することが可能だからでもある。
ごく単純な作法だ。
今この瞬間に集中すればよいのだから。
だからこそ、もしかしたら子供じみてシンプルなのかもしれない。
実存主義とは哲学なんだろうか?
僕には実践的なものに思える。
だから”作法”である。
哲学とは実践を俯瞰するもののように思っている。
アートであっても実践を俯瞰するものがあると思う。
それらは、まず実践(僕の思うに、瞬間に集中すること)が前提にあって発生する感性なんじゃないかと想像している。
単に俯瞰してお終いではない。
俯瞰したところから再び実践に向かうんじゃないだろうかと想像している。
もっとも近いイメージは抽象とか反復。
たとえば、杉林を描いていて、杉の葉の一枚まで丹念に描こうとするときに、葉を描く反復作業の方に描画の重心が移ることがあると思う。
葉というものから意味が剥落して、抽象化していく。
このとき絵は別の目的を持ったと言えそうに思う。
実存的なものが子供的なものだとしたら、大人的なものというと、概念だとか抽象じゃないかと想像している。
社会化というのは、実存的なものを概念化して”規範”=ルールを築いていくということだ。
規範とは枠であって、枠にハマる危険性がある。
そのことさえ理解されてあれば、概念化は抽象化に向かわないだろうか?
話が飛ぶようだが、霊感の強い人に、”霊の見方”というのを教わった。
眉間の上のあたりで、心の眼のような感じで見るのらしい。
僕には相変わらず霊は見えないのだけれど、いつか見たいと思う。
心の眼というなら、それはいわゆる眼球で見える類いのものではないのかもしれない。
かといって、夢や幻覚で見るわけでもないんだろう。
社会化の際に使う概念活動ではなく、抽象に向かうときのようなものじゃないだろうか?
ものの見え方には際限がない。
人間ひとり一人の視点の違いが横軸だとしたら、その深度やらなにやら、縦軸になる視点の巾もあるだろう。
見えないものが見たいんだ、と、かつて絵画コレクターのお一人に伺ったことがある。
同じ意味ではないのかも知れないが、僕も今の自分に見えない世界をいずれ見たい。
先日のテレビで、稲の品種改良を担う科学者の方が言っていた。
「科学の進歩でより多くのデータが集められるようになったけれど、その結果分かったのは、自分たちにはまだまだ分からないことがたくさんある、ということだった」と。
キャンバスの表面よりも、裏面の麻の粗さとか。
そういう素材の荒々しさ、勢い、不美さ、など、
そういうものが描くときの大きなモチベーションになっている。
-
肉。肉体。
分かつことのできない他者としての肉。
わたしであってわたしでない肉。
境界が消えて、彼岸に屹立する肉。
対峙する逃れられないわたしは、
内部からかたちをなくす。
消滅する肉。
拘束された光。
-
そういうことを描かんとして。
]]>それは自民党が政権を獲ったときにすでに明示された。
現状の根幹にあるのはグローバル化だと僕は思う。
たとえば、集団的自衛権容認の件も、TPP交渉と無関係ではないと思う。
世界がグローバル化に向かうことは基本的には止められないと思う。
グローバル化といかに距離を置いて生活を築いていくかが課題だと考える。
グローバリズムへの依存の大元は、大企業による雇用と消費、流通の独占だと思う。
もちろん大企業はそのほかほとんどすべての利権を独占しているけれど。
金融破綻で世界は混乱して、パイの奪い合いが激しくなったと思う。
日本は震災で大ダメージを負い、奪われる側になりかけている。
この危機に国と企業はお金を集約させ、弱者を切り捨て、国力を回復させようとしている。
厄災のあとにファシズムが台頭する道理。
グローバリズムとはざっくりいえば「天下統一」だろうと思う。
だれが天下を獲っても世界中に画一的なシステムが構築される。
グローバリズムは個人を孤立させ、誇りのもてる仕事を奪う。
誇りの持てない仕事から生まれるのは、味気ない消費のための消費物。
物に魂が宿るというのはある意味ほんとうだと思う。
そして、雇用と消費を支える流通。
運輸、輸送も大事だけど、僕たちは知らず知らずのうちに流通というシステム自体にコントロールされている。
スーパーで買い物をするのは普通だけど、その品物の生産者を僕たちはほとんどまるで知らない。
効率的に進歩した流通システムは素朴な売り手買い手のつながりを削いだ。
進歩した流通システムは売り手と買い手を分断し、売り手と買い手が孤立したために、両者とも巨大な流通システムに依存せざるをえない。
流通の独占、流通のグローバル化。
そこで、仕事と流通が自立できたら、と考える。
やりがいと誇りを持てる仕事は人間生活の基本。
そういった仕事から生み出されるものは消費する側に立っても信頼できる。
ごく素朴な、人同士の信頼関係。
見えない流通に乗らなくても、生産と消費の小さな独自の流通内でまかなえるネットワーク。
自立的なライフスタイル。
小さな地域自治なら可能かもしれないと思う。
地産地消を進め、かつ一般化するには、地域間のネットワークが有効だと思う。
一箇所ではまかないきれない生産と消費のバランスを地域間のネットワークで補う。
自立的な雇用と流通と情報交換を小さな自治のネットワークのなかで実現させる。
都市部では難しい。小さな自治体ならどうだろう。
グローバリズム=個人の孤立化が浸透しきっていない地域。
グローバル化の進む社会の中で、チェーン店の参入のない地域とはすなわち限界地域であり、新たなイメージなしには消滅しうる地域。
でも逆に自立的なライフスタイルを考えるチャンスもそこにあるかもしれない。
地域の生き残りと自立的な自治は相乗的な関係になるかもしれない。
インターネットもすでに死んだ。
ごく近い将来、それは統制、制御の道具でしかないだろうと思う。
いずれ、独自のネット環境が必要になる。
そういった分野でも、自立的なエンジニアが、大きなシステムから離れて、自立的なネット環境を構築することは可能だと信じたい。
一人ひとりが自立した仕事と生活を選べば、いろんなことが可能になる。
そのための環境を目指すことが大事だと思う。
たくさんの時間と労力がかかる。
グローバル化が止まるわけでもない。
すべての人が自立できるわけでもない。
それでも一部が変わることは未来に可能性を残すと思う。
これから日本にも移民が大量に増え、日本人としてのアイデンティティも問われる。
アイデンティティとは、もちろん「誇り」であって、誇りは自立した人間にしかやってこない。
現状で、徴兵されるのは若い世代に対する徴兵制と、生活弱者の非正規雇用だろう。
胸が痛い。だからこそ感傷に浸らず考え、行動したい。(自分のままで。)
]]>それで「なぜに?」と尋ねるわけですが、僕は「もう少し大きくなったら説明するね」と言うほかありません。
超保守の女の子が大きくなって理解してくれるかどうかは分かりません。
ただ、できるだけ率直に信号無視するその理由を述べるとしたら「こわいから」かなと思います。
信号ってたくさんの人が同じにルールを進行させることで円滑な道路状況を維持するのに欠かせない道具ですが、その道具のおかげで、ときに自分の眼で安全を確かめることを怠るようになります。つまり”見る”という作業を他人任せにして済ませるわけです。
僕はそのように、自分の眼で見なくなることがこわいのです。
なぜなら、自分は自分の眼で見ることを忘れがちになる人間であることを知っているからです。
だからといって道路の上で自分ルールを実践するのは間違ったことですね。
や、つまり、僕はわざと悪いことをしています。
「大人になってまだそのような子供なことを言う」など言われてしまいますが、僕は大人になっても、やらかす悪さの分量は減らないと知っています。大抵は陰でこっそりやる要領を学び、それで見せかけの悪さの分量が減るだけです。
少なくとも、男とはそんなもんだと思います。
不良という言葉がありますが、不良が悪いことをしなくなると不良の魅力がなくなります。悪いからかっこいいのです。
なぜに悪いがかっこいいかというと、社会に潜在する良識がときに悪徳であるからです。それに不良は反逆するからかっこいいのです。
ところが、陰で悪さをするようになると、それはもうちっともかっこよくないです。
腹の黒いただの大人になってしまったのです。
悪徳を良識(常識)に変える大人は常に陰に潜伏するものですよね。
世界に男がいなければ戦争もない平和になるとよく思います。
男は自分の都合で、世界にルールを敷き、コントロールします。それこそがいちばんの悪さです。それに反逆して、僕は歩行者信号を無視します。(車の信号は安全に無視できるほど周りをよく見るスキルが自分にはないのでしません。)
でも、小さい子にそのまんまマネされても困ります。
そんなときは言いたい。
マネすんな。
自分で考えろ。
]]>other men can make real.
人間が想像できることは、
人間が必ず実現できる。
といったのは、ジュールベルヌだそうで、
僕も小さいころからテレビなどでもよく耳にした。
(原文はこのたび初めて知りました)
小さいころのテレビから聞こえてくるそのニュアンスは、
すこし科学的、文明的な雰囲気だった。
僕は大阪万博の年に生まれたので、
その時代の雰囲気を強調するような言葉として
イメージされ共有されていたんだと思う。
たしかに人は無限のイマジネーションで発明し、
文明を発達させることができた。
でも、そのイマジネーションは、
いつも物質的な結果のみで計れるものでもない。
ジュールベルヌのこの言葉とまったく同じニュアンスで、
僕がいつも思い浮かべるのは、
ジョンレノンのイマジンの歌詞である。
あまりに有名で説明は不要だろうけれど、
一言でいうなら、僕たちが望む世界は、
イメージすることで実現できる、と。
それは夢想家の妄言ではなく、
ジュールベルヌの言葉が文明の進歩を裏付けるように、
イマジンの言葉もまた、人間の”意識の進歩”を、
裏付けることのできるものなのだと僕は思う。
映画「コンタクト」では、
夢想家の主人公である女性科学者と、その上司である現実家の科学者の会話にも
同じニュアンスが含まれたシーンが、深く心に焼き付いている。
上司「私も君のように、この世界が公平であったらと心から願う。
けれど、現実はそうじゃないんだ。」
主人公「おかしなことです。皆が決意すれば、世界はそうなるはずなのに。」
文明の力でも、政治政策でも、システムでもなく、
人の意識。
意識を変えるのに、お金はいらない。
時間もかからないし、システムも必要ない。
平和や公平を望まない人はたぶんどこにもいない。
ただ、現実を受け入れるので精一杯で、
夢を信じることができないでいるような。
かりに一瞬間、世界中の人が平和を祈ったとしても、
次の瞬間には争い合うのが人の常。
それでも、世界を平和にする方法として、
たったひとつの、はっきりとした方法が、
意識の進歩だと僕は思う。
シンプルでだれにでも理解できる方法。
ただ、イメージし、信じることがむずかしい。
それでも、僕たちは実感を伴って
信じることができる言葉を持っているように思う。
「人間が想像できることは、
人間が必ず実現できる」
]]>黄色い花だ。
長いまっすぐな茎も描いた。
それだけでは宙に浮いてるみたいだから、鉢に植えてみた。
茶色い、上辺の長い台形の鉢だ。
鉢も宙に浮いてしまわないように、地面も描いた。
茶色く塗った。
それだけだと、上の白いなにもないところがおかしいから、空を描いた。
山も描いた。
家も描いた。
家から山に行ける道も描いた。
途中で橋を渡る道だ。
橋の下には川を描く。
茶色い土手の小川だ。
川の中にはカエルの卵。
そうだ、いまは春なのだ。
黄色い花は春の花。
]]>各自それぞれであって、
だれかとまったく同じ世界を見ることはない。
だれかと気分を共有したいとしても、
自分の世界をだれかと共有することはできない。
それでも、世界には
だれもに共通に伝わる「なにか」があって、
だれもが感じるその「なにか」を描くときに、
自分の世界が必要なのだ。
]]>(身体(性)からの解脱とも言えます。)
基本的に未来のはなしです。
(言うなれば、でたらめで空想な自説を展開しようとしています。)
つねに非日常(可能性)を秘めた日常を描こうとしています。
(要するに絵の中はなんでもありということです。)
肉体が消えてなくなる感覚。
(いろんな意味で、フィジカルなものがどんどん減っていく社会。)
どこででも、誰にでも、いつの時代にもある日常のできごと。
(そういうものを足がかりにして描いています。)
けっきょく描こうとしているのは人間(性)です。
(あるいは単に思いこみの強さの挑戦です。)
]]>
こういうことが絵を描いていてもあると思う。(あくまで自分の経験であって、一般的にはどうなのか分からないのだけど)たとえば杉林を描いているとき、杉の葉の一本一本まで描きながら林を描いていると、だんだん自分がなにを描いているのか分からなくなる。はじめはたしかに杉の葉を描こうとしていたのだけれど、その描こうとする意図が遠のいていくような漠然とした気分になっていく。僕はこれを杉林から”意味”が剥落していくように感じる。
絵にも言葉にも元の対象はあって、当たり前なんだけど、その対象物は絵でも言葉でもない。言葉を発音する場合、その音にはじめのうちは意味を感じて発音するのだけど、単調に発音をくりかえしていると、その”音”から意味がメッキのように剥がれていくように思う。
絵はもともと絵の具やら鉛筆やらで描かれた点なり線なり面であって、実物である肉だの骨だの木だの土だのコンクリートだのはすべて違った素材で構成された別物だけど、絵で描くときは同じ絵の具、同じ鉛筆で描くのであって、材質的な隔たりがない。
言葉にしても発音してしまえば、すべては同じ”音”であって、元々表そうとしていたものとはまったく別の素材であるのは言うまでもない。
もともと言葉にしても絵(具象画)にしても、それを表現した対象物をだれもが思い浮かべることができる(ある程度共通に理解される)けれど、当然それは実物と同一ではありえないのだ。
実物と同一でないことはだれもが理解することだけど、同時に絵や言葉がその対象を表象することにも皆、慣れていて、頭のどこかで同一視してしまっている面もあると思う。単調に発音をくりかえしたり、単調に対象をくりかえし描いていると、ふとした拍子にその”意味”がこぼれ落ちてしまって対象と表象が乖離するとき、僕たちはなにか戸惑いを感じる。もともとが別物であるのだから当然ともいえるのに、あらためてその乖離にあうと言葉や絵がなにを表象していたのか不思議にさえ感じてしまう。こんなことが抽象画の出発点ではないか僕は思っている。
抽象化はなんらか「くりかえし」の作業があるときに発動するのかなと思う。くりかえすうちに行為が抽象化していく。だんだんと行為自体に気持ちが向かっていく。身体的なもの。「いま自分は一体なにをしているのか?」という問いかけはとても根源的ななにかを含んでいるように思う。
行為でなくても思考であっても、なんらかのくりかえし、論理を積み重ねていくうちに元の意味からかけ離れていくということはあるように思う。(くりかえしが抽象化の決め手かどうかは僕にはまだわからない。)
現実の世界であっても、その構成要素は実のところ、分子であり、原子であって同一の素材の組み合わせから成り立っているという。それならば、肉と鉄も元をいえば違いがないということになる。肉や鉄を抽象的な存在だとは思わないけれど、もともとは分子、原子だと考えるとどこか心許ない遙かな気持ちにもなる。
人間は言葉や絵でいろいろなものを言い表すことができるけれど、そこにそのものを完全に再現させているわけではない。そこに立ち上がるものは観念だ。ごく実存的に立ち返るなら、そこにある絵や言葉は、単なる色であり線であり、音でしかない。その言葉や絵を使ってさまざまなものやことを再現できるのが人間だけれど、その行為自体の不思議に立ち戻るのもまた人間だと思う。
行為に囚われると人間はしばしば目的を見失う。無意識に動かしていた両足の行為の不思議に目を向けたとたん僕たちは歩きづらくなる。それでもなお、その不思議に目を向けてしまうのは、そこになにかしら人間存在の根源のひとつが隠れているからであるような気がする。
]]>
ラジオでそのとき横山剣さんはたしか、音楽だか曲だかメロディだかの中に、時折、共通した普遍的なものを感じる逸品があって、そんなふうに感じるその感覚、質感のことをクオリアというのですと説明していたと思うけど、その横山剣さんのいうクオリアという言葉を聞いたとき、ずっと気になっていたことがら=まさしく「感覚、質感」にまつわるとても普遍的な何か、ありさま、状態というかそういうもの、いわゆる、名作、名品というかそんなものに共通して感じる質感というものが自分にもあって、それにそのクオリアという言葉を当てはめたとき、なんだかとてもすっきりした。
モノであっても事象であっても言葉であっても匂いや音やそのほかなんであっても、それに「王冠」が付くようなイメージが自分のなかにはあって、たとえば具体的にモノでいうと、凱旋門やピラミッド、地球の写真なんかにもその共通の質感を感じたりして、説明になってないのだけど、たとえばなんというか自分のなかの「父親像」に結びついたりしていたりする。その「王冠」にあたるものを言葉でいうならクオリア=普遍的な質感、というふうに自分の中で瞬時に結びついたのでした。
クオリアという言葉を改めて調べてみると、それは「主観的な体験がともなう質感」だそうで、たとえば「赤」を見たときに感じる「赤い」というのもその「質感」ということらしい。つまりあくまで主観的に個人個人がそれぞれに感じるものであって実証のしようがないのだけれど、だれもが感じるそれこそ言葉にしようのない感覚、質感であったりするもの。「赤」が「赤い」といってそれがほんとうに他人と一緒の「赤」かどうかは一生だれにも確かめられないのだけれど、それでもある程度共通の通念として通用する程度には広く認められ、共有されてもいる「質感」。
この質感=クオリアって、知覚的な、感覚器的な、よって生物的、科学反応的なことがらだけではなくて、もっと恣意的なものっていうか、それこそなんとも言葉にできないのだけど、なんてことない生活の端々でひょっこり感じるなにか。知る人ぞ知るところの、単なる思いこみを超えた、けれどあくまで主観でしかないあの感覚。確信めいた感覚。沢山の人がそのことに触れ、表現しつづけられているあれ。そのこともクオリアだと思えて、横山さんもそのことを言っていたよねたぶん、と思う。
それを何と呼べばいいのかわからないまま、自分なりにもそれを表現しようと思って日々絵を描いていたりするのだけど、古くから同じように、いえ数段すばらしくそれを表して、まさにそれを内在したところの創作物などに出会うにつれ、うれしがりつつ励まされつつしていて、案外自分の興味の大半であるところのそれ。そのそれの概要、大枠に世間で通用するところの”名前”があったのね。
真に主観的であるので確認のしようのないものなのだから、それを誰かと共有しようとしても、すればするほどに虚しくて切ないのだけれど、尽きることのない興味がそこにはあるなと自分では思う。この世に宝物なんてものがあるとしたら自分にとってはそれだねって思うなんてことは王冠をイメージするのも然りです。
]]>芸術作品って今さらやっぱり、どんなに考えたってお金に換算することが本来むずかしいものだと思うし、著作権なんていうのもビジネス中心に考え出されたお金を集約する方法にしか僕には思えなくて、芸術作品はどんなかたちにせよ、それを見た人の心を打つのであれば、それはお金に関係なく広く共有されていいように思えて、そこにこそ偏狭なビジネス感覚に束縛されない、社会全体にとっての重要な価値と意味付けがあるような。
ところでYouTubeといえば、再生前の宣伝が煩わしいのだけど、それでもその宣伝のスタイルがYouTubeの仕組みのなかで少しずつ洗練されていくのが興味深いといえば興味深くて、スキップまでは遠慮がちな構成、っていうのは当初からあったけど、そこから一歩進んで、一見して目を引く映像を使ったり、ためになりそうな情報を盛り込んでみたり、ちょっとエロい女の子を登場させてみたりして、視聴者の気持ちに寄り添っているというか、大衆の心理を商売に利用しているというか。こういう宣伝の仕方にも広告主のセンスが問われるね。
そんな中、視聴者の気持ちにまったく配慮しない某ひげそり会社の強引ともいえる宣伝スタイルは、もはや時代遅れなオヤジのような存在感であって、けれど高等な心理作戦を繰り広げることを洗練とするような趨勢のなかでいえば、反対に好感もてるのかもね。なんてね。
いえいえ、話の中心は映画のインディアンランナーの方なのだけど、詳しいあらすじはウィキペディアで検索(WIKI/インディアンランナー)してもらうとして、この映画の主題のひとつは「世界を肯定することのむずかしさ」だと思う。
主人公の警官ジョーの弟のフランクは暴力的な逸脱者であって、繊細な感覚が仇となって、自分の子供の出産に際して、精神的に追い詰められて酒場へ逃げ出し、ついにその酒場で殺人を犯すのだけど、これは世界を肯定する術をついに発見できなかったということだよね。
兄のジョーは、そんな弟の気持ちを理解しつつも、家族との生活の中に、世界の肯定を発見する。している。けれど、この映画全体が醸し出す雰囲気のあいまいさのように、兄弟間の世界に対する回答に本質的な差はあまりないように思える。殺人を犯した弟フランクを結局ジョーは見逃して映画は終わるのだけど、そこには弟への共感も色濃く顕れていると思う。
殺人直前、子供の出産を前に逃亡してバーで飲むフランクに、ジョーは荒々しく自分の手のひらをガラスで切り裂き、その血のなかにある人間の生命の尊さを説くのだけど、それでもジョーは自分の住む世界にまったく疑いを持っていないわけではない。心は揺れ動いている。
いったい、いかなる欺瞞もなく世界を肯定することって可能なのかな。
この世界を肯定するものが愛であったとして、それをもっとも一般的に具現化したはずの”家族”でさえも、厳密にいえばシステムであって、まやかしだと言えてしまう。
それでも僕たちはそういったものにすがって、妥協して生きるより、社会を構成することができない。
それは小さな欺瞞。小さいけれど決して拭うことのできない欺瞞。フランクはその欺瞞に絡み捕られてしまった。
フランクは暴力的衝動の強い癇癪持ち。逸脱者。けれど、世界を肯定するためにどれほど多くの人が、たとえばジョーのように小さな欺瞞に妥協しているのか。どれだけの人が妥協なく欺瞞を超克して世界を肯定できるものなのか。
そのへんの疑問が、フランクの生来の傾向と罪、その正当性をどこまでも不透明にしているような。
ただ、映画のなかに大事な示唆がひとつあって、ジョーはかつて警官になる前はファーマーであり、そのときジョーはBURN=燃えていた。そのことをフランクから気づかされ、その感覚を取り戻そうと再び庭を耕しはじめる。
]]>深夜のNHK-FMラジオでやっていた番組の、”ありし日のひと夏の経験”みたいな特集で、リスナーからのお便りのひとつが、ねむねむおばさん、68才。
たぶん小学生とか中学生のころの思い出なんだと思うけど、ずっと年上の初恋の人と、たまたまの機会に、はしゃいで遊んで、写真もたくさん撮ったんだけど、それからン十年。
あらためて写真を見返すと、
「そこには、めいっぱい背伸びしているわたしだけが写っていた。」って。
「わたしだけ」。
せつない話だなって思ってたら、司会のお二人は、その”わたしだけ”しか写真に写っていない、初恋の人は写っていない、はしゃいで写っているわたしと写ってない相手との距離の果てしなく遠い、そのあほらしいような、せつない感じは伝わらなかったらしく、話は別の方角へ。
お二人に知らせたいもどかしさがむくむくと、けれど、ねむねむおばさんの話を自分だけ(気づいたの自分だけじゃないだろうけど)が独占した気分にもなるような、日常の穴を見るような。
あとはうその希望しかない。
眼を伏せるときにだけ現れる。
これは動かしがたい事実。
絶望ありき。
けれどそのなかでこそ生命が燃焼を始める。
なぜなら希望はいつも未来に先行して存在するけれど、
生命の燃焼は”今現在”にしかないから。
希望はいつも未来に先行する。
ところが世界を見つめるものにとって、
それは今現在にしか存在しない。
希望に先導されるのでなく、
たぶん別のやり方で。
引用
ここにおいて、死との出逢いは、
生の無意味さ、無そのものとの出逢いとなる。
のこされたただ一つの価値は勇気である。
『老人と海』のサンチャゴは言うー
「そりゃ、人間は滅ぼされるかもしれない、けれども負けはしないんだぞ」。
しかも、勇気の価値すらあてにはならない。
死が勇気を否定するからであり、
勇気をふるいたたせる原因と言えば、
たいがい「人びとの阿片」だからである。
(コリン・ウィルソン著「アウトサイダー」より)
*「人びとの阿片」とは希望たる宗教、思想から性交、酒、娯楽などの喩え。
]]>やや空疎になるということはないか。
個の多様性が並列になろうとする社会を想像する。
並列になって、差違がなくなる。
没個性というのとは違うのだけど、
見かけ上そのようにも見える世界。
すべての個が同質であるのではなく、
多様な個性が並列にならんだ結果
均質になるというような。
個という概念が空疎な世界というのは、
総体的にみると、
無我に近いかもしれない。
究極に利己的な存在であろうとするゆえに、
利己を超越して、利他的な存在にいたるような
超利己的な存在。
利己を追求することに
限界がやってくるというよりは、
個が利己を追求することが
違和感なく利他的に波及する社会システムの構築。
(望むと望まざるとにかかわらず)
そんな社会構造のイメージ。
未来のイメージ。
]]>すべてのひとの自由な創作がひとしくあるなかでエラーがたまにおこるその、
そのそれが必要であるから、
そのたまのためにすべてのひとがひとしく自由に創作するせかい。
そうしたことがせかいのいしきを変えていくせかい。
そんな変化が必要なせかい。
]]>政治とは人間の人間に対する支配、すなわちその力の及ぼし方にはいろいろあるが、政治の力の及ぼし方は権力を用いて人を支配することであり、政治社会の統一のためには権力が必要である。しかし権力というものはそれ自身が目的ではなくあくまでも他の目的のための手段である。ところがこのことが忘れられ、権力の手段性が意識されないでそれ自身が目的になってしまい、権力を行使する方もされる方も権力それ自身に価値があるように考える傾向が生まれる。ここから権威信仰が発生するのである。権力に対する服従が絶対的になって来るというのは、権力が客観的な価値(真・善・美)を独占しているということから起こる。すなわち人間の行動の場合の価値の基準が権力から独立して存在し得なくなってしまうのである。一例を正義にとってみると、お上の命令だから無条件に従うという場合には、このお上の命令の中に正義が含まれており、すなわち正義という価値が権力者と合体している。このように客観的価値の権力者による独占ということから権威信仰は生まれる。権力者というものに命じられて道徳的拘束をもつ。だから服従者は権力に反抗した時に与えられるであろう罰に対する恐怖の意識から従うというだけでなく、反抗すること自体を悪と考えるに至るのである。その顕著なものとして承詔必謹のイデオロギー、進駐軍の命により車外乗車を禁ずるといった例がそれである。このような権威信仰がいかに我々の内部に深く潜んでいるかがわかる。さらに例をあげるならば、国家が戦争した以上戦争に協力するのが当然だという考えが、いまだに深く我々の道徳観念になっているということである。戦争をするのが正しいかどうかという価値観(正・不正)の判断を国家ーつまり具体的には政府にあずけているといえる。ヨーロッパ社会のようにconscientious objector(自己の良心が許さぬという理由から兵役に服さぬ人)は一般社会の通念になっていない。すなわち良心的反対者を社会がみとめていないということである。シナの儒教思想にはまだしも価値が権力から分離して存在している。すなわち君主は有徳者でなければならないといういわゆる?治主義の考え方で、ここから、暴君は討伐してもかまわぬという易姓革命の思想が出て来る。ところが日本の場合には君、君たらずとも臣、臣たらざるべからずというのが臣下の道であった。そこには客観的価値の独立性がなかった。人間の上下関係を規定するところの規範が、客観的な、したがってだれでも援用できる価値となっていない。親の言葉が子の道理という俗語もその例である。上位者そのものには道理という規範が適用されないのである。恩恵を垂れるということはあっても、これを下から要求することはできない、というのは仁・徳が権威者と合一しているから権威者の思し召し如何ということのみによっているからである。
また、権威信仰のもう一つの特徴としては、権力が決してむき出しのものとして出て来ないということである。つまりボカされ、温和な形で現れる。事実日本には露骨な残虐な政治的支配はあまりなかった。権威が何かありがたいものとして絶えず現れているので、そのために、それが根本的にはやはり権力の支配であるということがかえって人民の間には意識されないでいる。日本古来の家族主義といわれるものも権威信仰であり、恩恵を施すことが家長の意志のみにあって法律のように客観的規範がないから、家長から恩恵を受けている間にも家族員には一種の不安定な感じが存在する。それは客観的規範に訴えて主人に抗議することが許されないからである。たまにそんなことをする女中があると可愛さあまって憎さが百倍ということになる。このような関係は日本の政治史を見るとよくわかる。普通には残虐な支配はないが、いったん権威信仰の雰囲気的な枠に入って来ないとみると逆に非常に残虐になる。これは家族的原理の中に入って来ないものに対する「敵」への憎しみに外ならない。徳川時代のキリシタンに対して、また現代の思想犯に対して、支配者がいかに残虐にふるまったかがこのことを物語っている。日本には権力が権力として力として意識されないという特徴がある。ヨーロッパにおけるような権力崇拝がないのである。日本の政治家たちを見ていると、いわゆるやり手というのが軽蔑される。すなわち雰囲気的な統一を破って自己を主張するものに対して、集団のもつ嫌悪の感情である。また責任の主体をボカして支配するということが行われる。俗に黒幕による支配といわれるもので、支配者を単数にしないで責任の帰属がわからないようにする。一人の人間が自己の意見を持って行動するということが嫌われる傾向がある。立候補という制度でいい人が出にくいのはその一例である。日本の過去において天皇と別に法皇による院政というものがあり、幕府にも執権というものがあったのもそれである。中心になる権威が赤裸々な人間の支配として現れず、雰囲気的な支配として現れるのが特色である。(1948年)
ー出典「戦中と戦後の間」丸山真男著ー高校生のための文章読本(1986年刊)より
]]>光=電波=DATA、というふうに。
でも、全人類がそうなるのではないと思う。
一部だ。
その一部というのは端的に言って文明の先端部の層。
特権的市民層。
光になる特権的市民層と
光になれない貧困層。
もはや人種のような相違ではなくなって、
たとえばネアンデルタール人とクロマニヨン人との違い
光になった特権市民層は、
光になれない貧民層にはもはや
目視、認識することすら不可能かもしれない。
光になることは悪いこととは限らないと思う。
進歩だと思う。
人間は思考する生命であり、思考は物質的限界を超える。
光になるということは、限りなく物質的限界を超えることに近しいと思う。
そして、かつて宗教が追求した”解脱”がそこにあるかもしれない。
人間はそもそも光になることを志向しているとさえ思える。
光になった人類という栄光。
光になった人類の社会はユートピアというべきものかもしれない。
ユートピアのなかで人は豊かにくらす。
光になったのだから、それは物質的な豊かさではない。
精神的な豊かさ。
みんなが追い求めていた理想。
けれどユートピアは全人類が享受できるものではなく
その影にはそれを享受できない人たち。
(結局はどちらが幸福なのだろうか。)
かつて同種族であった特権市民層と貧民層は、
まったく別の種族となって分断する。
そのことを思うのは未来への恐れ、
もしくは感傷かもしれない。
現代人の大方が、過去より豊かに暮らしていると思うように、
未来人の大方は、現代人を憐れみすらするかもしれないと思う。
]]>ときに手が生え 足が生え
その調子はサイボーグ つまりそれは”変型的無形サイボーグ”
Homo sapiens lumen
形而上的存在に近づいた人類
純粋的、原罪的、思考の存在
どこまで進化しようと逃れられない矛盾
摂理に抗う存在=生命(という奇跡)
そこに内在する不条理、矛盾
すなわち原罪
解決できない原初的な矛盾→生命という奇跡→原罪
肉的欲望
肉であることをどこまでも回避しようとすると同時に、
どこまでも肉に執着する 矛盾した存在
肉の罪 肉の栄冠
同時に抱える。
そして光に変換された肉体
光の存在 思考の領域
生命(人間)が物質的であることと、非物質的であることを語ることは同義
物質的存在であると同時に、非物質的存在であるという矛盾
葛藤。
(軽いのか?)
(重いのか?)
光的肉体感覚とは
相克
矛盾 怒り 解脱
欲望
肉と光の相克
超えられない欲望
]]>いろんな被害がそれはそれはたいへんだろうけど、才能の流出が心配。
賢くて才能のある人が海外に出て行ってしまうんじゃないかなっと思う。
国力がひどく細りそう。
安倍政権が国ぐるみで海外途上国にビジネスを仕掛けていたりする。
原発事故国が原発売り込むなんて。
先進国は、また昔みたいに後進国を植民地化し始めている。
大きな戦争が始まりそうな。止まらないのかな。。
個人が自分のことだけを考えて生きるライフスタイルになっているなあと思う。
ムラはもちろん、家族という共同体すら崩壊しかけている。
昔ながらの共同体はもう機能しないのだ。
お金というシステムだって破綻しているはずなのだ。
お金なんかなくなればいいのだ。
いまの成長の仕組みだと一部の富裕層だけが生き残れるんだと思う。
だれだって戦争もいや、健康に悪いのもいや、自由がないのもいやなはずだけど、すごく大きなものに巻かれて「仕方ないや」って思うのか、なにも考えないようにするのか。。
海外に植民地を作って、それで今の生活が維持できればいいじゃんっというのもわかる。
安倍政権の効果で経営が良くなったって同級生におごってもらった。
自分にだって恩恵があったりする。
でも子供のことを考えるとやっぱり心配になる。
この今のまま進んでいく世の中は相当に世知辛いよねっと思う。
みんなで未来を考えられたらなっと思う。
いまのシステムではどうしてもイスとりゲームみたいな競争になってしまって、
そんな社会では自分のことばかりになってしまうのが人情で、
それでは未来のことなど考えられないのもムリはない。
「昔ながらの共同体はもう機能しない」ってさっき書いたけど、
それでもなんらか帰属できる集団はだれにでも必要だろうと思う。
いまは日本という国全体が危機的であって、
ある程度”国”という帰属単位を意識させられる。
個人的には以前から日本人という帰属意識はあった。
でもそれは”国家”という権力機構にではなく、
”国土”というか”民族”というか、
土や血に関係するようなものに対してだと思う。
生活のいろんな仕組みが国単位で決まったりするのだから、
”国”は無視するわけにはいかない帰属単位。
権力や束縛も感じる。
そういうレイヤーもあると思う。
でもそれ以外のレイヤーもあると思う。
ヒューマニズムみたいなものは必要なんじゃないかと思う。
公平な世界への標榜。
公平な民主主義を実践するには適切な規模があるみたいだ。
日本でいうと、”国”では規模が大きすぎるような。
理想的な民主主義はいまだかつて実践されたことがないそうだ。
ユートピアというと、一部の人たちだけのものという感じがする。
(事実と違うけど)たとえ自分がユートピアを享受できる一部の人間だったとしても、
それで良しって思えるかな。どうかな。
どっちにしても、
世界はそんなふうな世界に向かって進んでいる。
もしそれ以外の世界があるとしたら、
どんなだろう?
どんと焼きというと全国的に、1月の小正月に焚かれる大きな焚き火で、正月の飾り物や書き初めなんかを燃やす年中行事ですが、南会津の湯野上ではどんと焼きのことを”歳の神”と呼ぶんだそうです。それで、今回のお祭りは今年から新たに始まる村の行事なので、歳の神と分けるために、村では耳馴染みのない”どんと焼き”とネーミングされたそうです。
そのほか、六日間、キャンドルナイトやライブなどいろいろと企画されています。お祭りといっても小さな村なので、4〜500人の人出もあれば村がいっぱいになりそうです。
雪をかぶった稜線するどい山に囲まれて、このあたり独特の景観の谷を見おろす温泉と、雪のしんしんと情緒のあるほかはなにもないようなところです。
僕はここで、計八ヶ所で展示します。
壁にただ絵を掛けるのではありません。展示場所は地元旅館さんなんですが、各旅館のイメージを増長もしくは転換するような展示をします。それはなぜかというと、このお祭りが地元振興の祭りであって、同時に外界の新風を取り入れたいという主旨があることに賛同して協力したいという気持ちもありますが、同時に、自分の作品を使って、たくさんの人としっかりと向き合ってみたいと思うからでした。
「絵」といっても、いろいろ切り口があって一口には言えません。レクリエーションのために描くものとも言えるし、インスピレーションを伝え合う道具だとも言えます。
また、一口にインスピレーションといっても、人によってその姿かたちや意味合いまでいろいろ違ってきます。不特定多数の人に訴えかけられるものもあるにせよ、実はもっと確実なインスピレーションの伝達方法は、一対一のやりとりから引き出せるのかなと思います。
昨晩は、一緒に合同展示するため、村の子供たちに絵を描いてもらうワークショップを開いたんだけど、十数人、一度になにか伝えようとしてもうわべのことしか伝えられません。実際には一人ひとりの子供の顔を見て、話を聞いて、やっとその子のことが少しわかって、伝わる表現方法も少し分かってくる。
伝える方便はいろいろでも、僕が伝えたいことは、たぶん”勇気”だと思います。
ごく個人的な絵に対する思いとは別に、いま、僕は社会に向けてなにか発信しなければいけないなあと感じます。震災以降、生活の安全と経済問題とが同時に緊急事態となり、日本全体が揺らいでいます。そして、これは単に一時的な問題ではなく、これからの日本全体のライフスタイルを決定するような転換期にあるんだと思います。現行の経済偏向が進めば、不公平な格差社会の問題だけでなく、健康や環境の問題も解決しません。多くの人がそれに気づいていますが、それでも多数派ではない。
僕たちは現状をしっかり伝え合う、認識しあう、そして広め合う必要があるんだと思います。そして、伝え合うのには勇気が必要なんだと思います。間違ってることを間違ってると言うのって勇気がいることだと思うので。
僕は湯野上温泉にすでに二週間以上、滞在しています。会津の気候を体感し、気風を感じています。そんな中ひらめいたグラフィックを、ある旅館さんのビリヤードルームで部屋一面の壁に描かせていただきました。そのグラフィックは赤い旭日の放射して拡がるラインを切り取ったものです。
会津は、東北では目立って気性の荒さがあるように思います。山並みは険しく連なり、”みしらず柿”と呼ばれる地元の柿は”身の程知らず”なほどたくさんの実をつけ、冬になっても多くの実が凍ったまま枝にしがみついてぶら下がっています。人と山とみしらず柿が、本質の部分で連関しているように思えます。
そういう気性のはげしさ、それを”パワー”と感じて、そのグラフィックを壁に描きました。
けれど、このグラフィックはその旅館さんのことだけに触れているのでもなく、会津にだけ触れているのでもありません。日本全体に触れているつもりです。なにか勇気を持ってもらう力になればと思います。
「絵」といっても、いろいろな切り口があります。絵に絵画というものがあるとして、その絵画をもっとも純粋に味わう作法があるとして、それはやっぱり絵のほかはなんの情報も存在しない真っ白な状況で、絵に対面することだろうと思います。絵の画面の中だけで表現できるものがあるんだろうと思います。物語であったり純粋なインスピレーションであったり。そういうものが描きたいと思います。けれど、今回はそういう気持ちで描いた絵を、それとは別の使い途で、もっとも抽象的で言葉にならない”力”を表現することを意識しています。
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社会はかつてよりも個人の意識が社会全体のなかに昇華されやすくなったのではないかと思う。ツイッターはじめSNSの登場は革命だったと思う。
個の意識が全体のなかに反映されやすくなったという気がするが、そのぶん匿名性もあがったんだと思う。どの個人がなにをしたかということはもはや問題にされず、おしなべて均一な個がひたすら全体の一部として機能するようなイメージだ。蟻の社会を想起したりする。
社会システムとしては機能が向上しているのだろう。地球の裏側に住むだれだか知らない人間のちょっとしたつぶやきが世界を変えることもありうる。けれどそれはその個人のつぶやきの功績というよりは、その小さな言葉を掬い取れるようになったシステム自体の功績だろう。システムがシステム自体の機能をさらにあげるために個人の意識を自動的に吸い上げるという社会。
自他の境界が質を変えて曖昧になっているのかもと思う。これからの社会はかつてほど個人の業績が云々されることはないだろう。個が全体に埋没する。これは個の均一化だろうと思う。
けれどそれじゃあ個は退化するのかというとそうでもないと思う。個が個のなかに価値を見出すのではなく、全体のなかに価値を見出すようになるということがないだろうか。そしてそれを”意識の進歩”と呼ぶということはないだろうか。(一般に議論されているような”個の意識の進歩”については自分はよくわからないのだけれど。)
自他の差というものが、かつてのように単に個人の意識の向上からなくなるのではなく、社会システムの結果から半ば自動的に消滅するということはないだろうか。
良いことか悪いことかというはなしではない。
(書きかけ)
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