でも「絵」を描こうすると描けない。
描くのは「描こうとするもの」であって絵ではない。
描こうとした結果できあがってくるものが絵と呼ばれるだけであって、はじめから「絵」を描こうとすると絵にならない。
(自分もよく失敗する。)
技術や方法や形式は関係ない。一度、絵が描けたからといって、同じ方法を辿っても、また絵が描けるとは限らない。
一回性。
でも世の中にはそうでないものの方がたくさんある。
社会は効率と再生産性だから。
子孫を残すってことも詰まるところ一種の再生産なのだから仕方ない。
むずかしい。
でも、やっぱり自分の生は一回性、コピーみたいな再生産的な毎日で満足というわけにはいかない。
]]>
AIの労働力についてはいろんな意見あると思うけど、
ただし、収入源を補う仕組み、
でも今の自分にも直接関わるのは娘の将来と、あと、創作内容。
クリエイティブな仕事はAIにはできないとは全く思わない。
問題は"目的"だと思ってる。
"新しい感性で、新しい価値観を提示する"
じゃあ絵描きも廃業か?そうとも言えるけど、
さしたる目的もなく創作活動に没頭できる(してしまう)
人は何のために描くのか。
金のためではないし、はっきりした目的すらない。
描きたいから描くのだ。
もし仮にAIも同じように、描きたいから描く、
杉浦日向子さんというのは初めて知ったんだけど、どことなく貫禄ありますね。観音様にかぶって見えるのは荒木さんの写真のせいばかりじゃないんだろう。観音様に「貫禄ある」って喩えはどうかな、別にして。
荒木さんに切り撮られた観音様は俗世にまみれて、ときに同化して、ときにハレーションを起こして、まさしく泥の中の蓮の花。街かどやらビルの影やら猫やら雑踏やらに混じって写っている。
「もともと観音は変化仏であり、衆生の声に応じ、卑近な姿となって俗世へ降り、これを救済する。観音は、人とともに喜怒哀楽の情をあらわす、いわばまだ悟りのきわみにいたらぬ修行途上の仏だ。それだから、仏くさくなくて、むしろ人くさい。」(『東京観音』杉浦日向子)
写真を見てると、旅に出たいなあって気持ちになる。近所の散歩だって時には旅になるのに、行けないときは行けないもの。外に出ないことには観音様も外の世界も見えてこないのは当然。そんなときにどうしようもない気分になるのかなって思う。
どうしようもない気分の発端は、「改正組織犯罪処罰法」なわけだけど、その発端の根本を探っていけば、観音様にもすがりたくなるような(嘘)どうしようもない人類の業にしか行き着かなかったりして、いつのまにか、どことなく時空が歪んだように感じられたりする。それもそもそも自分が籠もってしまっているからなのかもしれない。外に出ないとね。
ネットでは、ちょっと偏った(一般の人の)コメントも散見されて、そういう人たちを詳しく見たりすると、やはりこれも引き籠もり的な、閉鎖的な人格が見えてきたりして、やっぱり籠もってはいけない。政治の話もオープンに気軽に人と話せばいいんだろうなと思う。経験上の話でもある。
なぜ時空が歪むのか。いや、時空はもともと歪んでいて、そのことに改めて気づかされる、と言ったほうがいい。「東京観音」の中で杉浦さんが書き記した言葉がある。
「光陰矢のごとし、なんて、うそだ。時間は一直線に過ぎてはいかない。寄せては返す波だ。今来た波と、次来る波は別だけど、寄せては返し、そして、えんえんとつづく。昨日は今日の過去で、明日は今日の未来だ。この世には昨日も明日もなく、えんえんと今日がくり返される。吸っては吐いて、泣いては笑って、環(わ)をめぐる。生は死のはじまりで、死は生のはじまりだ。果てしないね。また、いつか、どこかで。」(『東京観音』杉浦日向子)
「因果応報」とか言うとなにか分かったような気分になってしまうけど、そこに知覚される、されつづけるものというのはやっぱりあって、なにかがくり返されてる。遠く未来に見える自分の背中は、過去の自分のものかもしれない。
”歯車がぜんぶきれいに噛み合って、法律がテロを、テロが戦争を、戦争がお金を、お金が平和を運んできたとしても、今いるこの場所の空気はなにも変わらないでありつづけるような気がする。”
おかしな表現だけど、自分が感じた歪みというのは、こういう感じ。なにも変えられないっていう諦念ではない。
結論なんてないんだけど、あえて言うなら、56億7千万年先の未来に人を救うという、観音菩薩ならぬ、弥勒菩薩、その果てしない未来の弥勒の背中は今現在の人間一人ひとりのものかもしれないなって思うこと。とくに勝ちもしない負けもしない、ただ闘いつづける今日があり続ける感じ。
(でも、くり返す時空はまったく同じというわけでもない)
]]>そのおかげでアイデアが出ることもあるが、このごろは将来のことを考えてイヤになる。
それでもそうやって考えたことや思ったことはこうして書きたくなる。たしか昔はもっとどんどん書いていたが、このごろは書いても書いてもうまく書けない、というか、うまく書けていないことに気づいてしまうので、あまり書かない。
それでも、書くとなにかを吐きだしたようことになるんだろうか、すっきりするので、これはやはり抑鬱、デプレッションの反対、つまりエクスプレッションなのだと思う。
もともと考えるから吐き出すべき内容が喉の奥なのかどこかに溜まっていくのだから、考えたすえに書いたり描いたりして吐き出すというのは、必ずしも生産的とはいえない気もする。それどころか、吐き出す内容を喉の奥なのかどこかに溜める行為をするかわりに活動して行動するとたくさんの行為となって、それが生産というものではないか、や、機械的なそれではなく創造というものもそうなのだ。
心は考えないときのほうがよくものを見る。感じると思う。
今朝見た夢はよかった。
奈良美智さんが猛スピードで自転車でこちらに走ってくる。こちらも全力で自転車を漕いでいる。猛スピードですれちがいざま挨拶をした。奈良さんは元気そうだった。
通りすぎたあと、ふと、猛スピードで寒かったので自分の着ていたジャンパーを奈良さんにあげようと思いついた。自分も寒かったが、あげるという献身的な思いつきに自分で自分に感動した。夢だから。
大急ぎで大声で奈良さんを呼び止めながら引き返した。間に合わないかと思ったが、奈良さんにも通じ、止まってくれた。奈良さんはいい人だ。自分はいつもそう思っている。奈良さんはいい人。そして、奈良さんがいい人であるほど、自分はわるい人になっていく。だから、そして、つまり、奈良さんにあげたジャンパーは、自分のではなかった。それはもともと奈良さんのジャンパーだった。
奈良さんが行ってしまったあとには埃みたいにミドリのくずが散らばっていたので、ひとつのこらず探して拾った。手のひらいっぱいになった。いい人の落としていったくず。やっぱり奈良さんもミドリが必要なんだと思って安心した。(ほんとは奈良さんはお酒が好きなはずだから、事実とは違うとあとで気づく。)
そのくずを拾い集めたころにだれかがやってきて、分け前をねだる。よく知ってる奴だが夢だからどうも思い出せない。
あれはだれだっただろう。
夢はいい。夢をひきずって、朝にいちばん物思いに耽る。または書く。描く。そうしていればエクスプレッション。そうできなければデプレッション。
]]>
娘と行った図書館で、娘が本を探しているあいだ、借りるつもりもないのに手に取ったこの本の冒頭に出てくる女のあだ名が「ムムム」というのにひかれて、なんとなく借りた。
「ムムム」というのは、笑えなくなった女にお隣さんがつけたあだ名で、『機嫌が悪いのなら「ムッ」とした顔をすればいいのに、それを隠そうとするものだから、怒ったような困ったような眉をひそめたムムムという顔』になるから。
なんてことない小説だった。というと失礼だし、話も終わってしまうのだけど、なんてことない小説は、好きだ。
映画とかもそうだけど、小説も、割と冒頭のあたりで(たぶん自分にとって)おもしろいかどうかの判断がつく。言葉にするなら「辻褄があってる」というような。
地面があるから、足でその地面を踏みしめて立つことができる、そんなような当たり前のこと、そういう、なんてことない辻褄なんだけど、その積み重なりでできた、なんてことないもの。
「作ってるな」と白けてしまうものは、どこというのでもなく、でもはっきりと、辻褄が合ってない。創作なのだから基本ぜんぶ作ってあるのだけど。
「作って」ないもの、なんてことないもの、ただそれだけのことじゃないのかもしれないけど、そういうものにふれると、自分もなんかやってみよう、やれるかも、というような意欲が沸いてくることがある気がする。なぜだろう。
件の小説の中で、主要人物のテツコとギフ(義父のあだ名)は、夫(ギフには息子)を病気で亡くすんだけど、その夜の暗い帰り道、『寒かったし、悲しかったし、二人とも疲れきって口もきけなかった。その時、行く先にポツンと明かりが見えた。近づくとパン屋だった。』
『もう夜の十二時を過ぎようとしていたのに、中では昼間のように人が働いていた。テツコとギフが入ると、「もうすぐ新しいのが焼き上がりますよ」と店の人にいわれ、二人は待った。その時の二人は待つのに慣れきっていた。病院のあらゆるところ、検査結果を聞くための部屋や支払所、手術室、詰め所などで、ただひたすら待っていたからだ。』
『パンの焼ける匂いは、これ以上ないほどの幸せの匂いだった。店員が包むパンの皮がパリンパリンと音をたてたのを聞いてテツコとギフは思わず頬笑んだ。』
『悲しいのに、幸せな気持ちになれるのだと知ってから、テツコは、いろいろなことを受け入れやすくなったような気がする』
どことなく、この一節と意欲の源(みなもと)がリンクする。
AIの発達がすごくて、囲碁なんかも人間棋士のおよびもつかない棋譜で進んでいくらしい。無意味にしか思えない打ち手が最終的な段階でようやく理解できるというような。
だれかが「経営なんかもそうなるかも。意味わかんない合併やらなんやらが、最終的には大成功みたいな。」と言ってたが、創作の分野だってそうかもしれないと思う。
人間のすることは、創作だって、解析可能な過程を経たもののはずで、その「結果」においては、AIは人間を凌ぐと考えるほうが自然に思える。
でも、いくら解析可能であっても、人間にとって、創作にまつわる結果はあくまで結果であって目的ではない。忘られがちだけど。
創作する理由ってなんだろう、という本質的な問い。
目的なんかないんだよね、っていう繰り返される答え。
『悲しいのに、幸せな気持ち』
なんてことないけど、無意味かもだけど、やりたい気持ち。
件の小説の、夕子(テツコの義母、ギフの妻)の病床での気持ちの描写。
『今や、(庭の)銀杏の木と自分に境目はなくなりつつあった。モノというモノの名前が全て消え去ろうとしている。いつか、一樹(息子、テツコの夫)を抱いて庭を見ていた時に感じた、あの不思議な心持ちだった。それは、借りていたものを一切合切、ようやく返してしまったような気持ちのよさだった。」
名前という「意味」が、ときには目的にさえなったりもするのが社会なのかなって思うことがある。
そういう借りもの、かりそめを返してしまうと、あとに残るのは、意味やら目的ではなくて、さて、なんだろう。
]]>「なにそれ?」
「歩きたいとこ好きに歩きたいんだ。通行止めとか立ち入り禁止の看板あるだろ?あの先だって行けないことないんだよ。靴とか服とかちょっと汚れるけどね。川っぺりの石垣よじ登ったり、人ん家の庭とかかすめたりしながら。」
「やばいよ!」
「そう。人にみつかっちゃうと泥棒とか不審者に思われてやばい。でもオバケだったらあやしくない。」
「こわいよ〜!」
「でも見た人もあきらめつかない?オバケならしょーがないかって。」
「んー。。」
「大きくなるとみんなきれいな恰好して気取ってないといけないでしょ?そんな恰好してると立ち入り禁止のとこだって入れない。」
「だって立ち入れ禁止のとこ入ったってなんにもないじゃん。」
「うん。なんにもない。でもだれも歩かないとこ歩ける。大きくなるときちんとした恰好してないとそれだけで不審者じゃん?でもオバケになれば自由だぜ!人間だとすら思われないから夜中に塀よじ登っても平気だよ。ただし、犬には要注意。やつらは突然吠えてくるからやばい。」
「それで、そんなことして、あんた一体なにがしたいんだよ!」
「新大陸発見!」
]]>毎日描いてるはずの絵描き仲間に言われるとなおうれしい。
ところで、自分が「文章を書きたくなる」となるのは川上未映子である。
同じ関西人であることがそのいしづえにあるのかどうかは定かでないが、川上さんの文章にそのツボはあって、読むと作文欲求がほとばしるのである。
寝る前の10分間の、どうにも居たたまれないこの頃を慰めるべく、今日は図書館で川上氏のエッセイを借りた。そして借りただけで読んでもないのに、すでにほとばしる作文欲求が溢れ出ておそるべし。まさにいま、ものすごく久しぶりに文章を書いているのであるから。
このごろは文章を書かなくなってしまった。震災がきっかけだと思っている。
自分が震災で失ってしまったのは「文章」だった。
(せっかく書くのが好きなのだから)積極的に社会的な発言を書かねばならないという気持ちがはたらいた。しだいに文章も自分自身も堅苦しくなって、とうとう書かなくなった。
この「書かねば」は「描かねば」とも、もちろん似ている。
絵も文章もたのしいから描く(書く)のに、そこに「ねば」がやってくるのである。
そしてこれがなかなかふりほどけない。
「とはいえ、まじめにやってかないと日本まじでやばいから」と思うし、また、「まじめに描かないと自分の絵は家族の犠牲の上に成り立っているのだから」とも思う。まったくもって事実ではあるのだけど、「たのしい」を罪悪に変えてしまう同根のこの義務的感覚。
人の絵を見て、自分も描きたくなる気持ちは自分自身よく経験する。
そういう絵は描くのがたのしそうに見えるのである。
そして実際たのしくないわけもなかろう。
文章だって、たのしいから書くのである。
ほんとは伝えたいことすらないのかもしれない、とおもう。
絵も文章も。
ちなみに図書館では川上未映子といっしょに多和田葉子を借りてきた。
なぜか自分のなかには「この世でいちばんオシャレな本は多和田葉子だ!」という漠とした思いがある。
読むとちょっぴりねむくなる。
]]>ウォルトディズニーの魂を見るような、ほんとうに手間ひまと愛情のかかった作品だなあと感動した。
全編どの部分を取っても素晴らしいなあとつくづく思うのだけど、その中でも姫が継母の魔手から逃れるため森に逃げ込む場面から小人の家に落ち着くまでの場面に、僕はとくに感銘した。
まさにディズニーならではの恐ろしい森の悪夢が、白雪姫の、たったいま殺されそうになり、またそれが継母の指示だったと知り、悲しいやら恐ろしいやら、突如として身の上にふりかかった厄災とトラウマを、この森の悪夢が表現していて、ついに白雪姫はひれ伏して泣き崩れてしまう。
そこに森のかわいい動物たちが姫の悲しい泣き声に寄せられてやってくるのだが、びっくりした白雪姫に森の動物たちもびっくりして、森に逃げ込んでしまう。
そこで普通なら(少なくとも僕なら)かまわず泣き続けるか、せいぜい逃げ出されたことに余計悲しむくらいのことだと思うが、白雪姫はここで泣きやみ、自分はさておき、驚かせてしまった動物たちにごめんなさいと謝り気遣う心をみせるのだ。
さらに、ごく素直に自分の境遇を説明し、どうすればいいと思う?とまるで近所の道を尋ねるみたいに軽やかにやさしく尋ねる。そして唄えばいいのね!と受け止めて、鳥と一緒に唄い始める。唄えばそこに和ができて輪になって森のかわいい動物たちはみんな白雪姫と仲良しになってしまう。
それからその仲良しになった動物たちに案内を請うて、小人の家に辿り着く。そこで白雪姫は自分の得意な家事を活かす条件を見つけ出して仲間と一緒に唄いながら元気に取り組む。
結果、白雪姫は小人たちの歓迎を受けて自分の居場所を確保する。
この流れを見て、そんなことは話がうますぎると思うかもしれないが、こうだから白雪姫はハッピーエンドを迎える。その根拠がこの場面のなかに完全に表現されてあるのだ。
この流れはアニメを”美しく”つくるうえで必要な流れであるというかもしれない。いつまでもメソメソしていては話が進まないし、走るときはバレエダンサーのように美しく明るく走るほうがよい。実際、ディズニーの白雪姫の洗練された過不足なく表現的な動きはたぶんバレエダンサーをキャプチャーしたものだろう。
すべての動きが計算され尽くしたようでいてとても自然なのは、ウォルトディズニーの才能なんだと思う。真相は、ひとつひとつのキャラクターやその動きを丹念に描き、それらがもっとも理に適ったやり方でつぎの動きや場面を呼び込み連なってできていったのだろうと想像する。それは作品に対する深い愛情と情熱がなければできない。
そしてそれがそのままヒロインの白雪姫にも当てはまる。目の前のひとつひとつを大切に慈しむ白雪姫の姿はそれ以前の場面でも描かれている。鳥に話しかけることは超能力でも病気でもない、目の前の世界に愛情と好奇心を持って接していることの顕れでもある。
ひとつひとつの出来事に集中することで目の前の出来事に最大限の力で対処できるし、それがポジティブな気持ちから始まっているのなら、実際、唄もうつくしく響き、和もうまれる。だから白雪姫は大願を成就したのだと納得できる。そして同時にウォルトディズニーのこの作品がすばらしいことも白雪姫の成就も、当然にして相似的な関係にあるのだ。
そういう物語に僕は強く勇気づけられる。
それでも、大願が成就するのは稀なる美貌があったからというかもしれないし、同様に稀なる才能があったからこのような作品が作れたのかもしれない。
それはたしかにその通りだと思う。誰にでもこんな作品が作れたりはしない。いや作れる必要がないのだ。成就するものがどんなに小さなものであっても、実際のところその大小は関係ない。ただやりきった充実感だけが誰にも平等に、や、白雪姫のようにポジティブに受け止める人間により多く、やってくるということだけが問題なんだろうと思う。
]]>近所にみつけたお米の自動販売機で買った。目に入ってはいたんだけど精米器かと思ってたら販売機だった。5キロ千円って安いから。
ふつう記されてるはずの産地表記がないとなんだか心細いご時世で、そのちょっと不安な感じがあるからかどうなのか、米の味がイマイチで心細い。
安いだけあって古々米とか古々々米とかなのかな。震災以降の不安のほうも浮かぶんだけど、実際そっちのほうは味には関係ないよね。でも作り手がすっかり元気なくなっちゃって味にも影響することもあるのかなあなんて、もうすっかり空想。
でも、そういう不安な気持ち、感情とか、そういうものがいろんなものに影響してる。ぜんぜん別の問題なのに、空想的な気持ちに感情がはたらいて、ほとんど暴走みたいに無関係の方角へと突っ走っていく感じ。
感情つまり気持ちのゆらめきのようなものは絵描きや芸術家なんかには必要のように思われるかもしれないけど、実際に必要なのは感じることとそれを見つめる目であって、感情のほうは邪魔にしかならない。パッションというものには役に立つこともあるのかもしれないけど。
そんな結構無用な感情が、ふつうならあるはずの産地の表示がないとそれはそれはドキドキして、産地がわかるとやっぱり少しホッとする。でもいつでも産地が分からないと不安かというとそうでもない。食品になってる原材料の産地まで僕はあまり気にしないし、それでいったら産地どころかその材料がいったいどんなものなのかよくわからないものが入っていても案外平気だったりする。
ふだんの表示の事情しだいで、それに慣れちゃってる。いつもある表示がなければ不安になるし、なければないで、それがいつもの事情であれば気にすることもない。かなしいとこに日常感覚なんてその程度だったりする。
その程度の日常感覚に日常的に感情がついてくる。理性で抑えているけれど、感情は世の中のいろんな事情に流れて右往左往して渦巻いてる。ほんのふとした拍子にそれが噴出する。
世間のあっちこっちで噴出する感情が右往左往して、炎上したり計画が中断したり。でもどこで噴出するんだか、実はだれにもわからなくって対処のしようもない感じ。でも自分自身の感情の噴出を見ていると、そんなに気にするほどのこともないなあと思ったり。なんせ暴走する感情のほとんどは空想なのかもしれないし。
どうせ打つ手もないのなら、気にせずのびのび行こうかなって思います。
]]>ネットというものがこのように人も殺しかねないほど自由だってことかなって思う。気持ちとしては同情が強いかも。
このことについて、いろんな人がずっと話題にしてる。おもしろいんだと思う。ワイドショー的にというより、ネット社会や時代を映す鏡になってる。いろんな視点から問題を切り取れる。だから自分も書いてみようと思う。
僕も検索画像を元にたくさん絵を描いている。
基本的にモデル代わりに使うけど、特に新しいシリーズの描き始めなんかは画像の影響を強く受ける。パクりの範疇かもしれない。
0から作り上げるものの魅力はやっぱり大きい。
ちょっとでもパクりが入っていたら気持ちは冷める。
いくら理屈を言ったって感じることは止められない。
その感じがふつうにみんなにあったと思う。
でも0からはたいへん。
どんな偉人でも先人の智慧を借りて自分の仕事を進める。
まさかこの人の作品にも元ネタがあったなんて、、という落胆はだれでも一度はすると思う。
自分のことでいうと、人物のポーズほんとむずかしい。
考えて試行錯誤して、結局昔ながらのポーズや配置がいいんだと気づかされたり、検索画像の何気ないポーズが逆にぴったりきたりする。
人物にしろ背景にしろ想像だけではなかなかうまく描けない。
どっちにしても、ネットの力を借りて仕事を進めることは悪くないと思う。
目的がそこでなければ。
(佐野さんの仕事からは目的がまるで見えてこないからいけなかったんじゃないかと思う。)
”サンプリング”は僕にとって黒人音楽がレコードを楽器にしたことから始まっているので基本OKだ。クリエイティブだと思う。お金もかからない笑。
表現したいものがサンプリングしたものとかぶらなければクリエイティブだと思う。(佐野さんの話ではない。)だれにでもチャレンジできるというのもクリエイティブだ。
いま、検索画像を使わないなんてソンだと思う。
けど、だからこそ使わない、のももちろんいい。
画像や音源がいろいろ簡単に使える、などの「社会的な条件」というのは関わり方しだい、使い方しだいで、使っても使わなくても時代を表現できると思う。
ただ、その条件をなかったかのごとく排除するのはクリエイティブじゃないと思う。
新しい時代の条件はどんどん受け入れていきたい。受け入れたうえで否定するのはおもしろい。
否定的なものを肯定的に捉えていくのはおもしろい。
有名な人は一度はかならずネットの炎上を経験するらしいけど、はじめのうちは炎上って避けたいものに思えてたけど、いまではあまり深刻に考えない。たかがネットでのことだし。
炎上商法したいなのも出てきたし。
だからってわけじゃないけど、佐野さんもたいしたことなければいいと思う。
とにかく否定的なものがそうでなくなって、世の中の価値が変質していく感じは見ていてもおもしろい。
「盗用問題」も、これを機会にサンプリングのあり方にひとつのラインが見えたのかもしれない。みんなの納得するサンプリング、直感的に受け入れられない下手なサンプリングという境界。それが見えたことでサンプリング文化がまた成熟するかもしれない。
たぶんデザインやらサンプリングやらに関わる人の多くが自分を見つめ直したと思うし、僕もそう。正か否か、自分のライン引きを引き直すいい機会だ。そこから次のアイデアも出て来る。
あと、話がちょっと変わるけど、画像検索で出てくる画像って世界のごく一部。膨大で無限のようでいて、世界のほんの一部の時代と場所が映っているだけだと思う。
その画像イメージがたとえば「山」のパブリックイメージを決定していたりすると思う。
人の顔などでいえば、たとえばマリリンモンローやエルビスなど、や、数え上げたらキリがないんだけど、それでも人の顔の全部でいったらごく一部が代表している。
そしてその多くが50〜80年代の画像な気がする。テレビ時代。それ以前以降もあるけどピークじゃないかと思う。アンディウォーホルなんかの時代。ウォーホルが示したように80年代はコピー時代の幕開けだった。そして、実はそれまでの時代で「オリジナル」はほとんど出尽くしているんじゃないかとも思える。あとはモンローの顔をコピーし続けるだけ。
僕たちは時代の晩年、コピー反芻の時代に生きている感じがする。
ただ、状況としてはコピーし続けてるだけでも、そのコピーはモンローの顔を解釈し続けるってことであって、クリエイティブだし、悪くはないと思う。(佐野さんの話ではない。再度)
]]>30枚一組の絵を1ピースごと30人の持ち主の中でピース同士を交換してもらって交流してもらうっていうGIFTという企画から始まったブログで、30人の方々の掲示板みたいなつもりで始めたんです、元々は。
でも結果、企画は進行せず、ブログはわたくしSal専用のブログみたいになっちゃってる。
一応、絵描きなので、表現者としての立場から個人的に思うことをそのまま素直に書いています。企画は中断しっぱなしでも自分が責任とれるのは、このブログを続けることかなと思って。
でも、最近はSNSとかで、ブログを投稿するっていう気分が出て来ず、投稿もご無沙汰になってる。文章書くのは好きだし、せっかくなら読んでほしいのでFBとかにブログの気分半分で投稿したりしていて、文章を書かなくなったわけではない。
それでも、ひさしぶりにアクセスログを開けてみると、今でもページを閲覧してくれている人がいるみたいで、とてもうれしかった。
少ない日もあるけど、たまにたくさんになっていたりして、「やっぱり続けていきたいな」と思った。
だからというわけでもないんだけど、この10年間、ブログに投稿した文章で、いいのを選んでジンかなにかにしたいなと思う。画集もだしたことないのに、文集みたいな感じで文章を本にしたいなって思う。じっさい画集出すより情熱があるかも笑。
手作りで文集。つくりたい。
]]>ときどき、(* )の原文を勝手に置き換え↓
-
(前略)
三木「今にまたドストエフスキーなんかが流行る時代が来るかも知れないね。」
小林「うん、どうもやっぱり、ああいう人の困った問題というものは永遠の問題だから。」
三木「人生の謎というものはいつも同じだね。」
小林「やはり同じところに立ち返ってくるのだな。」
三木「人間というものは進歩しないね。科学が発達すれば戦争が無くなるとよく人が言っていたが、そんなことは嘘だということは、今度の戦争で証明されたわけだ。なにしろそういうものだな。進歩の思想は人間を浅薄にする危険があるね。」
(中略)
三木「(前略)今日教養といっているもので本を沢山読んでいるとか、ものを沢山知っているということが特別のことでなくて、なんでもない当たり前のことになってこなければならん。そういうものがほんとの知識人でないということがわかってこなければならんと思う。ところが、今ではまだそれが何か特別のことのように考えられているんだね。」
小林「そうだな。だけど、青年というものは皆そういうものは持っているという気がする。真の教養なり思想なりの芽生えというものを持っている。持っているが、それが育たない。芽が伸びないところがある。大人になるといろいろなことで摘んでしまうね。小説家になって摘んでしまう。評論家になって摘んでしまう。科学者になって摘んでしまう。それから俗人になって摘んでしまう。そういうところがあるよ。」
三木「結局、一番欠乏しているのは実験的精神だと思う。」
(中略)
三木「近代の科学者は教養人というものと違う。読書が学問であるという伝統を変革したところに近代科学のえらさがある。その精神は教養というものとは違うもっと原始的なものなんだな。そういう精神を、科学ばかりでなしに、ほかのものにおいてももっと掴まなければならないのじゃないかと思う。」
(中略)
三木「現代人(*近代人)の弱さというのは、ネット(*新聞)を読むね。ネット(*新聞)に出ていることで自分に関することはたいてい嘘が書いてある。それだのに、ひとの事が出ていると誰でもそれを信ずる。そういうところに現代人(*近代人)の欠陥がある。ものにぶつかって究めるということが少ないわけなんだね。」
小林「どういうことろからそういう論を立てるかね。」
三木「それは今言ったように世界共通のものだが、特に日本人の欠陥でもあると思う。というのは本を読むことが学問だというような観念がなかなかぬけきらないのだね。昔から支那のことをやるにしても、支那へ行かないで支那の本を読んでやる。全然西洋を観たことのない人間が西洋の本を読むだけで西洋について論じる。アメリカへ行ったことのない人間がアメリカ文学の専門家で通る。そういうところがあるね。知識というものはそういうものだという考えがあるから、逆に言えば日本の現実について研究しなくても済む。つまり知識が主としてネット(*読書)から得られるので、現実(*事実)にぶつかってそこから出て来るものではないのだね。(後略)」
小林「感覚の鈍りだ。はっきりものを見ないのが根本だ。」
三木「その見ているところから、ものを考えるということが実験的精神というものじゃないかね。」
(中略)
小林「実証精神というのは、(中略)なにもある対象に向かって実証的方法を使うということが実証精神でないよ。自分が現に生きている立場、自分の特殊な立場が或る仕事(*学問)をやるときにまず見えていなくちゃならぬ。俺は現にこういう特殊な立場に立っているんだということが或る仕事(*学問)の仕掛けにならなければいけないんじゃないか。(中略)そういうものを僕は実証的方法というのだよ。」
三木「その通りだ。精神とか態度とかの問題だね。誰でも自分だけがぶつかっている特殊な問題がある。そういうものを究めてゆくことが仕事というもの(*学問)だ。ところが仕事(*学問)というものは何か決まったものがあるように考えられている。(後略)」
(中略)
小林「話は違うが、どのくらい人間というものは、いろいろ夢を見たがるかということが、僕は近頃なんとなく分かってきた。齢をとるとーーそんなこと言う齢ではないんだが、、、死期が近づくと、、、。やはり死期というのは確かに近づいておるのだね。妙なことだ。そんなこと別に考えないけれど、やっぱり死期というものはちゃんと近づいておるのだね。」
三木「遺書を書く、遺言状だね、遺言状を書くという気持ちは、今の人(*作家)にもないね。」
小林「ないね。」
三木「これを一つやって(*書いて)しまえば死んでもいいという。」
小林「実際ないのだよ。」
三木「僕なんかもこの頃よくそういうことを考えるね。これ一つやって(*書いて)おけば死んでもいいという気持ちでやらなければ(*書かなければ)駄目だね。実際いつ死ぬかわからんのだからね。というのは、すべてのものが現象的になって、形而上学的なものが失われてしまったのだ。永遠というものを考えなくなっている。」
小林「そうだ。僕なんかもそう思っているのだけれど。永遠の観念というものがなければ、芸術もなければ道徳もないと思っているのだ。そういうような考えは青年時代に懐いたけれども、僕はいろいろなことで自信がつかなかった。段々自信がついてきた。そういうものが一番本当だということが、、、。一番そういうものが確かだ。本当に空想じゃなく確かだな。そういうことに段々自信がついてきた。」
三木「進歩の思想に立つと、どんなことでも少しずつやればいいということになる。十あるもののうち今日は一つ書いておいて、明日また一つ書けばいいというような考え方が毒していると思う。これでおわりということになれば、十もっておれば十出さなくちゃならぬ。これは生活態度においてもそうだと思う。」
小林「そうだよ。例えば弾圧ということを言う。どうしてそんなことを考えて、自分が十五年先に死ぬということを考えないのだ。十五年先に死ぬということは大弾圧でないか。そんな大弾圧が必ず十五年先に来るのを知らないで、政府が何を弾圧したということの刺激で何かの思想が起こっているのだよ。まあ言ってみれば、そういう風な思想の浅薄な起こり方、それがいやだね。現代の思想は、いったん石器時代に戻って、またそこから出直す必要があるとさえ言いたいくらいだよ。」
三木「ある人がいて、弾圧されるかもしれないと考えるだろう。その場合に、これ一つやって(*書いて)おけば弾圧されてもいいと思ってやる(*書く)か、あるいはまだまだ弾圧されないかもしれないというような気持ちが底にあってやる(*書く)か、その点だね。弾圧されるということを本当に身近に感じておれば、これ一つしかやれない(*書けない)と命がけでやる(*ものを書く)。そういう気持ちになってくれば日本の文化も立派になるというのだろう。」
小林「文学者や思想家が政治的関心を持つことは結構だが、関心を持つと考え方まで政治的になるということはバカバカしい。政治家がさしあたり大切なことだけを考えるのはよいが、思想家がおよそ思想上の問題でさしあたりの問題でさしあたり大切なものは何かなぞと考えるのは止めたがよい。話がおめでたくなって、議論がこんがらがる以外に何の益も断じてない。」
三木「結局便宜主義ではほんとの文化は創られない。」
(後略)
-
個人的にはこれひとつ描けば死んでもいいわって思えるところにちっとも近づけないことに日々ふるえてるわ。
]]>コラージュ画像のニュースを見て思わず、はっとした。
事件とは別のところで、心が躍ったというか。
無条件に「いまを浮き彫りにしたもの」に気持ちが反応した。
「日本人はここまで感情が劣化している」。
他者の気持ちに共感できない、しにくい、いまの日本を、なんていうかものすごく直接的な感じで表現したと思う。結果的に。
やったのは一部の劣化の激しい人たちだと思う。
ただ、そのほんの一部がネットによっておそろしく肥大して社会の空気に影響してる感じ。
政府のオラオラな気分が無自覚のうちに火だねを作ってしまう、
そんな今回の状況も、政治家の「感情の劣化」が一因だと思えば、コラージュ画像の一件とつながって見える。
この民度にしてこの政府。矛盾がない。
海外一部メデイアでは、このコラージュ画像がテロリズムの深刻性を破壊して、結果良かった、と解釈するところもあるらしい。
たしかに結果的にはそういう部分もあると思う。どこか痛快だったとも思う。
けれど、もう少し冷めて見れば、もちろんこれは、意図された、アーティスティックな(固定観念を崩壊させる)活動なんかではなく、一部のネットユーザーが現実と虚構の境界を失っているせいで、ほとんど偶然に起きた社会現象みたいなものだと思う。
(現実と虚構が並列するときの滑稽さが、テロリズムの深刻性を破壊したわけで、もしかしたらこのことを直感的に狙った人もあったかもね。でもやっぱり偶然性が強そう。)
現実と虚構。
文章や画像で構成されたネット上の虚構は、あくまで現実の部分的な”解釈”であって、それを現実と誤認すると、現実に対する理解や共感の深度はとても浅くなる。すぐに底にぶつかる。まして、その虚構を国語的に(または本質的に)十分咀嚼できてない場合は、目も当てられない。
現実に対する理解、共感の欠乏したネット世論が、現実の社会、政治を突き動かしているとしたら、こわい。