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くり返す今日

昨日今日と、どうしようもない気分が続いて仕方なく、荒木経惟+杉浦日向子の「東京観音」を見て力を抜く。

 

杉浦日向子さんというのは初めて知ったんだけど、どことなく貫禄ありますね。観音様にかぶって見えるのは荒木さんの写真のせいばかりじゃないんだろう。観音様に「貫禄ある」って喩えはどうかな、別にして。

 

荒木さんに切り撮られた観音様は俗世にまみれて、ときに同化して、ときにハレーションを起こして、まさしく泥の中の蓮の花。街かどやらビルの影やら猫やら雑踏やらに混じって写っている。

 

「もともと観音は変化仏であり、衆生の声に応じ、卑近な姿となって俗世へ降り、これを救済する。観音は、人とともに喜怒哀楽の情をあらわす、いわばまだ悟りのきわみにいたらぬ修行途上の仏だ。それだから、仏くさくなくて、むしろ人くさい。」(『東京観音』杉浦日向子)

 

写真を見てると、旅に出たいなあって気持ちになる。近所の散歩だって時には旅になるのに、行けないときは行けないもの。外に出ないことには観音様も外の世界も見えてこないのは当然。そんなときにどうしようもない気分になるのかなって思う。

 

どうしようもない気分の発端は、「改正組織犯罪処罰法」なわけだけど、その発端の根本を探っていけば、観音様にもすがりたくなるような(嘘)どうしようもない人類の業にしか行き着かなかったりして、いつのまにか、どことなく時空が歪んだように感じられたりする。それもそもそも自分が籠もってしまっているからなのかもしれない。外に出ないとね。

 

ネットでは、ちょっと偏った(一般の人の)コメントも散見されて、そういう人たちを詳しく見たりすると、やはりこれも引き籠もり的な、閉鎖的な人格が見えてきたりして、やっぱり籠もってはいけない。政治の話もオープンに気軽に人と話せばいいんだろうなと思う。経験上の話でもある。

 

なぜ時空が歪むのか。いや、時空はもともと歪んでいて、そのことに改めて気づかされる、と言ったほうがいい。「東京観音」の中で杉浦さんが書き記した言葉がある。

 

「光陰矢のごとし、なんて、うそだ。時間は一直線に過ぎてはいかない。寄せては返す波だ。今来た波と、次来る波は別だけど、寄せては返し、そして、えんえんとつづく。昨日は今日の過去で、明日は今日の未来だ。この世には昨日も明日もなく、えんえんと今日がくり返される。吸っては吐いて、泣いては笑って、環(わ)をめぐる。生は死のはじまりで、死は生のはじまりだ。果てしないね。また、いつか、どこかで。」(『東京観音』杉浦日向子)

 

「因果応報」とか言うとなにか分かったような気分になってしまうけど、そこに知覚される、されつづけるものというのはやっぱりあって、なにかがくり返されてる。遠く未来に見える自分の背中は、過去の自分のものかもしれない。

 

”歯車がぜんぶきれいに噛み合って、法律がテロを、テロが戦争を、戦争がお金を、お金が平和を運んできたとしても、今いるこの場所の空気はなにも変わらないでありつづけるような気がする。”

 

おかしな表現だけど、自分が感じた歪みというのは、こういう感じ。なにも変えられないっていう諦念ではない。

 

結論なんてないんだけど、あえて言うなら、56億7千万年先の未来に人を救うという、観音菩薩ならぬ、弥勒菩薩、その果てしない未来の弥勒の背中は今現在の人間一人ひとりのものかもしれないなって思うこと。とくに勝ちもしない負けもしない、ただ闘いつづける今日があり続ける感じ。

(でも、くり返す時空はまったく同じというわけでもない)

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