GIFT_installation

.detail>> LINKS <GIFT_web>
<< 感情の噴水 | main | 久々の文章 >>
ディズニーの白雪姫のすごいとこ

ディズニー初の長編アニメ1937年作品「白雪姫」を繰り返し観てる。

ウォルトディズニーの魂を見るような、ほんとうに手間ひまと愛情のかかった作品だなあと感動した。

全編どの部分を取っても素晴らしいなあとつくづく思うのだけど、その中でも姫が継母の魔手から逃れるため森に逃げ込む場面から小人の家に落ち着くまでの場面に、僕はとくに感銘した。

まさにディズニーならではの恐ろしい森の悪夢が、白雪姫の、たったいま殺されそうになり、またそれが継母の指示だったと知り、悲しいやら恐ろしいやら、突如として身の上にふりかかった厄災とトラウマを、この森の悪夢が表現していて、ついに白雪姫はひれ伏して泣き崩れてしまう。

そこに森のかわいい動物たちが姫の悲しい泣き声に寄せられてやってくるのだが、びっくりした白雪姫に森の動物たちもびっくりして、森に逃げ込んでしまう。

そこで普通なら(少なくとも僕なら)かまわず泣き続けるか、せいぜい逃げ出されたことに余計悲しむくらいのことだと思うが、白雪姫はここで泣きやみ、自分はさておき、驚かせてしまった動物たちにごめんなさいと謝り気遣う心をみせるのだ。

さらに、ごく素直に自分の境遇を説明し、どうすればいいと思う?とまるで近所の道を尋ねるみたいに軽やかにやさしく尋ねる。そして唄えばいいのね!と受け止めて、鳥と一緒に唄い始める。唄えばそこに和ができて輪になって森のかわいい動物たちはみんな白雪姫と仲良しになってしまう。

それからその仲良しになった動物たちに案内を請うて、小人の家に辿り着く。そこで白雪姫は自分の得意な家事を活かす条件を見つけ出して仲間と一緒に唄いながら元気に取り組む。

結果、白雪姫は小人たちの歓迎を受けて自分の居場所を確保する。

この流れを見て、そんなことは話がうますぎると思うかもしれないが、こうだから白雪姫はハッピーエンドを迎える。その根拠がこの場面のなかに完全に表現されてあるのだ。

この流れはアニメを”美しく”つくるうえで必要な流れであるというかもしれない。いつまでもメソメソしていては話が進まないし、走るときはバレエダンサーのように美しく明るく走るほうがよい。実際、ディズニーの白雪姫の洗練された過不足なく表現的な動きはたぶんバレエダンサーをキャプチャーしたものだろう。

すべての動きが計算され尽くしたようでいてとても自然なのは、ウォルトディズニーの才能なんだと思う。真相は、ひとつひとつのキャラクターやその動きを丹念に描き、それらがもっとも理に適ったやり方でつぎの動きや場面を呼び込み連なってできていったのだろうと想像する。それは作品に対する深い愛情と情熱がなければできない。

そしてそれがそのままヒロインの白雪姫にも当てはまる。目の前のひとつひとつを大切に慈しむ白雪姫の姿はそれ以前の場面でも描かれている。鳥に話しかけることは超能力でも病気でもない、目の前の世界に愛情と好奇心を持って接していることの顕れでもある。

ひとつひとつの出来事に集中することで目の前の出来事に最大限の力で対処できるし、それがポジティブな気持ちから始まっているのなら、実際、唄もうつくしく響き、和もうまれる。だから白雪姫は大願を成就したのだと納得できる。そして同時にウォルトディズニーのこの作品がすばらしいことも白雪姫の成就も、当然にして相似的な関係にあるのだ。

そういう物語に僕は強く勇気づけられる。

それでも、大願が成就するのは稀なる美貌があったからというかもしれないし、同様に稀なる才能があったからこのような作品が作れたのかもしれない。

それはたしかにその通りだと思う。誰にでもこんな作品が作れたりはしない。いや作れる必要がないのだ。成就するものがどんなに小さなものであっても、実際のところその大小は関係ない。ただやりきった充実感だけが誰にも平等に、や、白雪姫のようにポジティブに受け止める人間により多く、やってくるということだけが問題なんだろうと思う。

| 日記 | 11:37 | - | -
CALENDAR
S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< April 2017 >>
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
LINKS
PROFILE