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小林秀雄と三木清の対話抜粋

小林秀雄と三木清の短い対話(1941年)を勝手に編集。

ときどき、(* )の原文を勝手に置き換え↓

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(前略)

三木「今にまたドストエフスキーなんかが流行る時代が来るかも知れないね。」

小林「うん、どうもやっぱり、ああいう人の困った問題というものは永遠の問題だから。」

三木「人生の謎というものはいつも同じだね。」

小林「やはり同じところに立ち返ってくるのだな。」

三木「人間というものは進歩しないね。科学が発達すれば戦争が無くなるとよく人が言っていたが、そんなことは嘘だということは、今度の戦争で証明されたわけだ。なにしろそういうものだな。進歩の思想は人間を浅薄にする危険があるね。」

(中略)

三木「(前略)今日教養といっているもので本を沢山読んでいるとか、ものを沢山知っているということが特別のことでなくて、なんでもない当たり前のことになってこなければならん。そういうものがほんとの知識人でないということがわかってこなければならんと思う。ところが、今ではまだそれが何か特別のことのように考えられているんだね。」

小林「そうだな。だけど、青年というものは皆そういうものは持っているという気がする。真の教養なり思想なりの芽生えというものを持っている。持っているが、それが育たない。芽が伸びないところがある。大人になるといろいろなことで摘んでしまうね。小説家になって摘んでしまう。評論家になって摘んでしまう。科学者になって摘んでしまう。それから俗人になって摘んでしまう。そういうところがあるよ。」

三木「結局、一番欠乏しているのは実験的精神だと思う。」

(中略)

三木「近代の科学者は教養人というものと違う。読書が学問であるという伝統を変革したところに近代科学のえらさがある。その精神は教養というものとは違うもっと原始的なものなんだな。そういう精神を、科学ばかりでなしに、ほかのものにおいてももっと掴まなければならないのじゃないかと思う。」

(中略)

三木「現代人(*近代人)の弱さというのは、ネット(*新聞)を読むね。ネット(*新聞)に出ていることで自分に関することはたいてい嘘が書いてある。それだのに、ひとの事が出ていると誰でもそれを信ずる。そういうところに現代人(*近代人)の欠陥がある。ものにぶつかって究めるということが少ないわけなんだね。」

小林「どういうことろからそういう論を立てるかね。」

三木「それは今言ったように世界共通のものだが、特に日本人の欠陥でもあると思う。というのは本を読むことが学問だというような観念がなかなかぬけきらないのだね。昔から支那のことをやるにしても、支那へ行かないで支那の本を読んでやる。全然西洋を観たことのない人間が西洋の本を読むだけで西洋について論じる。アメリカへ行ったことのない人間がアメリカ文学の専門家で通る。そういうところがあるね。知識というものはそういうものだという考えがあるから、逆に言えば日本の現実について研究しなくても済む。つまり知識が主としてネット(*読書)から得られるので、現実(*事実)にぶつかってそこから出て来るものではないのだね。(後略)」

小林「感覚の鈍りだ。はっきりものを見ないのが根本だ。」

三木「その見ているところから、ものを考えるということが実験的精神というものじゃないかね。」

(中略)

小林「実証精神というのは、(中略)なにもある対象に向かって実証的方法を使うということが実証精神でないよ。自分が現に生きている立場、自分の特殊な立場が或る仕事(*学問)をやるときにまず見えていなくちゃならぬ。俺は現にこういう特殊な立場に立っているんだということが或る仕事(*学問)の仕掛けにならなければいけないんじゃないか。(中略)そういうものを僕は実証的方法というのだよ。」

三木「その通りだ。精神とか態度とかの問題だね。誰でも自分だけがぶつかっている特殊な問題がある。そういうものを究めてゆくことが仕事というもの(*学問)だ。ところが仕事(*学問)というものは何か決まったものがあるように考えられている。(後略)」

(中略)

小林「話は違うが、どのくらい人間というものは、いろいろ夢を見たがるかということが、僕は近頃なんとなく分かってきた。齢をとるとーーそんなこと言う齢ではないんだが、、、死期が近づくと、、、。やはり死期というのは確かに近づいておるのだね。妙なことだ。そんなこと別に考えないけれど、やっぱり死期というものはちゃんと近づいておるのだね。」

三木「遺書を書く、遺言状だね、遺言状を書くという気持ちは、今の人(*作家)にもないね。」

小林「ないね。」

三木「これを一つやって(*書いて)しまえば死んでもいいという。」

小林「実際ないのだよ。」

三木「僕なんかもこの頃よくそういうことを考えるね。これ一つやって(*書いて)おけば死んでもいいという気持ちでやらなければ(*書かなければ)駄目だね。実際いつ死ぬかわからんのだからね。というのは、すべてのものが現象的になって、形而上学的なものが失われてしまったのだ。永遠というものを考えなくなっている。」

小林「そうだ。僕なんかもそう思っているのだけれど。永遠の観念というものがなければ、芸術もなければ道徳もないと思っているのだ。そういうような考えは青年時代に懐いたけれども、僕はいろいろなことで自信がつかなかった。段々自信がついてきた。そういうものが一番本当だということが、、、。一番そういうものが確かだ。本当に空想じゃなく確かだな。そういうことに段々自信がついてきた。」

三木「進歩の思想に立つと、どんなことでも少しずつやればいいということになる。十あるもののうち今日は一つ書いておいて、明日また一つ書けばいいというような考え方が毒していると思う。これでおわりということになれば、十もっておれば十出さなくちゃならぬ。これは生活態度においてもそうだと思う。」

小林「そうだよ。例えば弾圧ということを言う。どうしてそんなことを考えて、自分が十五年先に死ぬということを考えないのだ。十五年先に死ぬということは大弾圧でないか。そんな大弾圧が必ず十五年先に来るのを知らないで、政府が何を弾圧したということの刺激で何かの思想が起こっているのだよ。まあ言ってみれば、そういう風な思想の浅薄な起こり方、それがいやだね。現代の思想は、いったん石器時代に戻って、またそこから出直す必要があるとさえ言いたいくらいだよ。」

三木「ある人がいて、弾圧されるかもしれないと考えるだろう。その場合に、これ一つやって(*書いて)おけば弾圧されてもいいと思ってやる(*書く)か、あるいはまだまだ弾圧されないかもしれないというような気持ちが底にあってやる(*書く)か、その点だね。弾圧されるということを本当に身近に感じておれば、これ一つしかやれない(*書けない)と命がけでやる(*ものを書く)。そういう気持ちになってくれば日本の文化も立派になるというのだろう。」

小林「文学者や思想家が政治的関心を持つことは結構だが、関心を持つと考え方まで政治的になるということはバカバカしい。政治家がさしあたり大切なことだけを考えるのはよいが、思想家がおよそ思想上の問題でさしあたりの問題でさしあたり大切なものは何かなぞと考えるのは止めたがよい。話がおめでたくなって、議論がこんがらがる以外に何の益も断じてない。」

三木「結局便宜主義ではほんとの文化は創られない。」

(後略)

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個人的にはこれひとつ描けば死んでもいいわって思えるところにちっとも近づけないことに日々ふるえてるわ。

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