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キェルケゴール「死に至る病」より引用

キェルケゴール「死に至る病」より引用

(岩波文庫、斉藤信治訳を参照しつつ独自に書き出し)

「絶望せる偏狭性は根源性の欠乏である。言い換えれば人間が自己の根源性を奪い去られて精神的な意味で去勢されている状態である。

どんな人間も、根源的に自己自身たるべく定められており、自分自身となることが使命である。

さて、自己はありのままの状態ではすべて角のあるものである、けれど、だからといって自己はなめらかにすり減らされるべきだとはならず、それはただなめらかに磨き上げられるべきである。

人間は、人間を怖れるあまり自分自身であることを放棄することがあってはならない。いわんや他人に対する恐怖だけのために、自己がその本質的な偶然性(これこそすり減らしてはならないものである)のままに自分自身であろうとすることを放棄してはならない。

人間はかかる本質的な偶然性のなかでこそ自己自身に対してまさに自己自身なのである。

人間は絶望の一つの仕方において無限者のなかに迷い込んで自己自身を失うことがあるとともに、絶望の他の仕方において、彼はいわば自分の自己を「他人」から騙し取られるのである。

そのような人間は、自分の周囲の人びとを見、あらゆる世間的な事柄との関係のなかに入り込み、世間がどういうものか理解するに及んで、自己自身を忘却し、自分の名前(この言葉の神的な意味において)さえ忘れ果て、自分で自分を信じる気にもなれず、自己自身であろうなどとだいそれたことは考えず、他人と同じようである方がずっと楽で安全だと考えるようになる。

こうして彼は群集のなかで、一つの単位、一つの符牒、一つのイミテーションに墜落するのである。

絶望のこの形態に、世間は全くといっていいほど気づいていない。こういうふうに自己自身を放棄する人は、まさにそのことによって世渡りの骨(コツ)、否、世間で成功する骨(コツ)を体得するにいたるからである。

こういう人々の場合、彼自身の自己とその自己の無限性への努力が彼を邪魔したり、煩わせたりすることがなくなる。彼は小石のようになめらかにすり減らされており、貨幣のように通りがいい。

世間は彼を絶望していると見なすどころか、人間はかくあるべきものと考えるのである。一般に世間はほんとうにおそるべきものの何たるかを全然理解していない。ただひたすら生活に何の支障もきたさない、生活を安易で愉快なものにするような絶望を、全く絶望と見なさないのはむしろ当然である。

世間の考えがこういうものであることは、なかんずくほとんどあらゆる格言(それは大抵、処世訓にすぎないが)についても窺える。

例えば、「饒舌には十度の、沈黙には一度の後悔がある」といわれる。なぜか?口に出して言ったということは、ひとつの外的な事実であり、それ自身ひとつの現実であるから、それは人をいろいろな煩いに巻き込みうる。けれどもし口に出さなかったとしたら、そうはならない。

実はこれこそ危険極まりないことである。というのも沈黙は人間を全く自己自身へと孤立せしめる。そこでは現実がやってきて彼の世話を焼くということがない。現実が彼の言葉の結果をして彼を罰するというようなことがないのである。

しかり、そういう意味では沈黙は決して危険を孕んでいない。けれどまさしくその故に、おそるべきものの何たるかを知る人は、その進路を内側にとって外に何の痕跡も残さないような罪をこそ怖れるのである。

また、世間の目から見ると冒険は危険である。冒険には失敗の可能性がつきまとうからである。冒険しないことこそ賢明である。しかし我々は、冒険すれば(いかに多くのその他を失おうとも)容易には失わないものを、冒険しないためにかえって安々と失うことがあるのである。すなわち、自己自身を。

少なくとも、冒険する者はかくも安々と、まるで何も失われはしなかったかのように安々と、自己自身を失うということはない。もし私の冒険が間違っていたとすれば、そのときはそのときで、人生そのものが私を罰し、同時に救ってくれるだろう。

しかし、もし私が全く冒険を試みなかったら、一体誰が私を救ってくれるだろう?ことに、もし私が最高の意味での冒険(それは自己自身を凝視することにほかならない)を避けて通った卑怯さのおかげで、あらゆる地上的な利益を獲得できたとして、自己自身を失うとしたら?

有限性の絶望というのはまさにこういうものである。このように絶望している人間は、そのためにかえって都合良く世間のなかで日々を送り、人々から賞賛され、重用され、名誉ある位につき、そしてこの世のあらゆる仕事に携わることができるのである。

世間と呼ばれているものは、もしもこう言ってよければ、いわば世間に身売りしているような人々からだけで出来上がっているのである。彼らは自分の才能を利用し、富を蓄積し、世間的な仕事を営み、賢明に打算し、その他いろいろなことを成し遂げて、おそらくは歴史に名が残りさえする。

しかし、彼らは彼ら自身ではない。彼らが他の点でいかに利己的であろうと、精神的な意味ではなんらの自己をも所有していない。」

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