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里山散歩の夕暮れ

車ではあったが、久しぶりに里山を見てまわった。

乾いた気分に一瞬のうちにうるおい。

見ているのは、人の生活のあわいのようなもので、軒先の道具や洗濯物や戸の隙間から見える居間や家人の姿、それから畑や田圃のあぜ道にもそれはあって、ひいては木や山、空の鳥までもが関係してくる。

そういうものが全体で命のつながりとして見えて、人間が一人じゃないと思い出させてくれるのだろうと思う。もっとも、そのつながりの外側にいる傍観者こそが自分であるのだけれど笑。

そして、久しぶりに山を歩いた。

山の神社といえば、山の鎮守の主であって、そこら周辺のなかでも重要スポットだろうと思う。

神社は比較的古く変わらず存在する「少し奇異」な場所なりモノなりが祀られているところ。昔に起こった出来事から発生する神社もある。それらが祀られて長い時間が過ぎていく。時間の流れの止まった場所だ。

そういう所であるから、その土地を歩くならあいさつしておく場所、もしくは情報を得る場所だと僕は思う。周囲の歴史を見てきた場所だから。

神社では二礼二拍手一礼するけれど、僕は手を合わせている間、社と周囲に耳をすますことにしている。「目の前に集中する」原則が自分にあるからなんだけど、要するに目の前を観察することに集中するわけだ。

けれど、なにかを感じたことはない。神社の主に話しがあるわけでもないので、鈴をならすこともあいのだけど、このときの散歩では境内に登りながら、鈴を鳴らしてみようと決めていた。

他にだれもいない山の中の小さな神社である。雷神社という。境内に上がったとたん、周囲の松や、ヒノキが竜のようにうねりながら天を突くのが目に入った。小さな質素な神社だけど、雷神社だった。晴れた初秋の夕暮れだった。

僕は今回、神社に話を聞こうとしたのであった。今まで神社は自分がなにかを要求する場所でしかなかった。転じて今、神社の話を聞いてみることにしたのである。

つまりは社と周囲に耳をすますことなのだけど、今までと違う心境のなか、僕は耳をすますことをやめた。五感に頼ることをやめたのである。

いまだかつて神社の声を聞いたことのない自分が、神社の声を聞くためにこれまで使ってこなかったものがあるはずである。それは五感以外のものであると思えた。

眼で見たり、耳で聞いたりすると、いろいろな感情も湧いてくる。立派な木を見れば荘厳な気持ちになるし、奇怪な音を聴けば緊張が走る。

夜であれば恐怖でそれらを感じるだろうし、明るいときとは気持ちのあり方も違ってくる。

そういったものから離れてみたい。

心の眼というものを聞いたことがある。ちょうど眉間の上にそれはあるのだと、その人は言った。それは眼球で見る眼ではなく、心で見る眼なのだそうで、それを今、神社の前で思い出したのである。

社の鈴を鳴らし、丁寧に二礼し、慎重に二拍手し、集中の時間に入る。眼を閉じ、周囲の音を忘れ、心臓の部分に集中してみる。

と、なにも起こらない、なにも見えない。

そんなものだろう。

でも僕は大事なことに気づいた。

神社に話を聞く姿勢と、心の眼をイメージすること。

どちらも「心を開く」ことなんだろうなと思う。

いまだにできない自分である。

| 日記 | 14:27 | - | -
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