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抽象画の出発点

たとえば、ある言葉をくりかえし口に出して発音するうちに、その言葉の意味がなぜか曖昧になってくることがある。

 

こういうことが絵を描いていてもあると思う。(あくまで自分の経験であって、一般的にはどうなのか分からないのだけど)たとえば杉林を描いているとき、杉の葉の一本一本まで描きながら林を描いていると、だんだん自分がなにを描いているのか分からなくなる。はじめはたしかに杉の葉を描こうとしていたのだけれど、その描こうとする意図が遠のいていくような漠然とした気分になっていく。僕はこれを杉林から”意味”が剥落していくように感じる。

 

絵にも言葉にも元の対象はあって、当たり前なんだけど、その対象物は絵でも言葉でもない。言葉を発音する場合、その音にはじめのうちは意味を感じて発音するのだけど、単調に発音をくりかえしていると、その”音”から意味がメッキのように剥がれていくように思う。

 

絵はもともと絵の具やら鉛筆やらで描かれた点なり線なり面であって、実物である肉だの骨だの木だの土だのコンクリートだのはすべて違った素材で構成された別物だけど、絵で描くときは同じ絵の具、同じ鉛筆で描くのであって、材質的な隔たりがない。

言葉にしても発音してしまえば、すべては同じ”音”であって、元々表そうとしていたものとはまったく別の素材であるのは言うまでもない。

もともと言葉にしても絵(具象画)にしても、それを表現した対象物をだれもが思い浮かべることができる(ある程度共通に理解される)けれど、当然それは実物と同一ではありえないのだ。

 

実物と同一でないことはだれもが理解することだけど、同時に絵や言葉がその対象を表象することにも皆、慣れていて、頭のどこかで同一視してしまっている面もあると思う。単調に発音をくりかえしたり、単調に対象をくりかえし描いていると、ふとした拍子にその”意味”がこぼれ落ちてしまって対象と表象が乖離するとき、僕たちはなにか戸惑いを感じる。もともとが別物であるのだから当然ともいえるのに、あらためてその乖離にあうと言葉や絵がなにを表象していたのか不思議にさえ感じてしまう。こんなことが抽象画の出発点ではないか僕は思っている。

 

抽象化はなんらか「くりかえし」の作業があるときに発動するのかなと思う。くりかえすうちに行為が抽象化していく。だんだんと行為自体に気持ちが向かっていく。身体的なもの。「いま自分は一体なにをしているのか?」という問いかけはとても根源的ななにかを含んでいるように思う。

行為でなくても思考であっても、なんらかのくりかえし、論理を積み重ねていくうちに元の意味からかけ離れていくということはあるように思う。(くりかえしが抽象化の決め手かどうかは僕にはまだわからない。)

 

現実の世界であっても、その構成要素は実のところ、分子であり、原子であって同一の素材の組み合わせから成り立っているという。それならば、肉と鉄も元をいえば違いがないということになる。肉や鉄を抽象的な存在だとは思わないけれど、もともとは分子、原子だと考えるとどこか心許ない遙かな気持ちにもなる。

 

人間は言葉や絵でいろいろなものを言い表すことができるけれど、そこにそのものを完全に再現させているわけではない。そこに立ち上がるものは観念だ。ごく実存的に立ち返るなら、そこにある絵や言葉は、単なる色であり線であり、音でしかない。その言葉や絵を使ってさまざまなものやことを再現できるのが人間だけれど、その行為自体の不思議に立ち戻るのもまた人間だと思う。

 

行為に囚われると人間はしばしば目的を見失う。無意識に動かしていた両足の行為の不思議に目を向けたとたん僕たちは歩きづらくなる。それでもなお、その不思議に目を向けてしまうのは、そこになにかしら人間存在の根源のひとつが隠れているからであるような気がする。

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