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クオリアという質感

以前にラジオで横山剣がしゃべっていて初めて耳にしたとても気になった言葉があって、けれどその言葉をすぐに忘れてしまってどうしても思い出せずにいたのだけど、今朝、川上未映子のエッセイを読んでいたらその言葉が出てきたので、とてもすっきりとしたその言葉はクオリア。

 

ラジオでそのとき横山剣さんはたしか、音楽だか曲だかメロディだかの中に、時折、共通した普遍的なものを感じる逸品があって、そんなふうに感じるその感覚、質感のことをクオリアというのですと説明していたと思うけど、その横山剣さんのいうクオリアという言葉を聞いたとき、ずっと気になっていたことがら=まさしく「感覚、質感」にまつわるとても普遍的な何か、ありさま、状態というかそういうもの、いわゆる、名作、名品というかそんなものに共通して感じる質感というものが自分にもあって、それにそのクオリアという言葉を当てはめたとき、なんだかとてもすっきりした。

 

モノであっても事象であっても言葉であっても匂いや音やそのほかなんであっても、それに「王冠」が付くようなイメージが自分のなかにはあって、たとえば具体的にモノでいうと、凱旋門やピラミッド、地球の写真なんかにもその共通の質感を感じたりして、説明になってないのだけど、たとえばなんというか自分のなかの「父親像」に結びついたりしていたりする。その「王冠」にあたるものを言葉でいうならクオリア=普遍的な質感、というふうに自分の中で瞬時に結びついたのでした。

 

クオリアという言葉を改めて調べてみると、それは「主観的な体験がともなう質感」だそうで、たとえば「赤」を見たときに感じる「赤い」というのもその「質感」ということらしい。つまりあくまで主観的に個人個人がそれぞれに感じるものであって実証のしようがないのだけれど、だれもが感じるそれこそ言葉にしようのない感覚、質感であったりするもの。「赤」が「赤い」といってそれがほんとうに他人と一緒の「赤」かどうかは一生だれにも確かめられないのだけれど、それでもある程度共通の通念として通用する程度には広く認められ、共有されてもいる「質感」。


この質感=クオリアって、知覚的な、感覚器的な、よって生物的、科学反応的なことがらだけではなくて、もっと恣意的なものっていうか、それこそなんとも言葉にできないのだけど、なんてことない生活の端々でひょっこり感じるなにか。知る人ぞ知るところの、単なる思いこみを超えた、けれどあくまで主観でしかないあの感覚。確信めいた感覚。沢山の人がそのことに触れ、表現しつづけられているあれ。そのこともクオリアだと思えて、横山さんもそのことを言っていたよねたぶん、と思う。

 

それを何と呼べばいいのかわからないまま、自分なりにもそれを表現しようと思って日々絵を描いていたりするのだけど、古くから同じように、いえ数段すばらしくそれを表して、まさにそれを内在したところの創作物などに出会うにつれ、うれしがりつつ励まされつつしていて、案外自分の興味の大半であるところのそれ。そのそれの概要、大枠に世間で通用するところの”名前”があったのね。

 

真に主観的であるので確認のしようのないものなのだから、それを誰かと共有しようとしても、すればするほどに虚しくて切ないのだけれど、尽きることのない興味がそこにはあるなと自分では思う。この世に宝物なんてものがあるとしたら自分にとってはそれだねって思うなんてことは王冠をイメージするのも然りです。

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