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世界を肯定すること
 映画でフェイバリット、ショーン・ペンの「インディアンランナー」がYouTubeにアップされてあって、13パーツにわけてあるんだけど、冒頭ほかいくつかが著作権者の申し立てで、音がミュートされてあって。ぜんぶ削除するのとどっちが良心的なんだろね。

芸術作品って今さらやっぱり、どんなに考えたってお金に換算することが本来むずかしいものだと思うし、著作権なんていうのもビジネス中心に考え出されたお金を集約する方法にしか僕には思えなくて、芸術作品はどんなかたちにせよ、それを見た人の心を打つのであれば、それはお金に関係なく広く共有されていいように思えて、そこにこそ偏狭なビジネス感覚に束縛されない、社会全体にとっての重要な価値と意味付けがあるような。


ところでYouTubeといえば、再生前の宣伝が煩わしいのだけど、それでもその宣伝のスタイルがYouTubeの仕組みのなかで少しずつ洗練されていくのが興味深いといえば興味深くて、スキップまでは遠慮がちな構成、っていうのは当初からあったけど、そこから一歩進んで、一見して目を引く映像を使ったり、ためになりそうな情報を盛り込んでみたり、ちょっとエロい女の子を登場させてみたりして、視聴者の気持ちに寄り添っているというか、大衆の心理を商売に利用しているというか。こういう宣伝の仕方にも広告主のセンスが問われるね。

そんな中、視聴者の気持ちにまったく配慮しない某ひげそり会社の強引ともいえる宣伝スタイルは、もはや時代遅れなオヤジのような存在感であって、けれど高等な心理作戦を繰り広げることを洗練とするような趨勢のなかでいえば、反対に好感もてるのかもね。なんてね。


いえいえ、話の中心は映画のインディアンランナーの方なのだけど、詳しいあらすじはウィキペディアで検索(WIKI/インディアンランナー)してもらうとして、この映画の主題のひとつは「世界を肯定することのむずかしさ」だと思う。

主人公の警官ジョーの弟のフランクは暴力的な逸脱者であって、繊細な感覚が仇となって、自分の子供の出産に際して、精神的に追い詰められて酒場へ逃げ出し、ついにその酒場で殺人を犯すのだけど、これは世界を肯定する術をついに発見できなかったということだよね。


兄のジョーは、そんな弟の気持ちを理解しつつも、家族との生活の中に、世界の肯定を発見する。している。けれど、この映画全体が醸し出す雰囲気のあいまいさのように、兄弟間の世界に対する回答に本質的な差はあまりないように思える。殺人を犯した弟フランクを結局ジョーは見逃して映画は終わるのだけど、そこには弟への共感も色濃く顕れていると思う。


殺人直前、子供の出産を前に逃亡してバーで飲むフランクに、ジョーは荒々しく自分の手のひらをガラスで切り裂き、その血のなかにある人間の生命の尊さを説くのだけど、それでもジョーは自分の住む世界にまったく疑いを持っていないわけではない。心は揺れ動いている。


いったい、いかなる欺瞞もなく世界を肯定することって可能なのかな。

この世界を肯定するものが愛であったとして、それをもっとも一般的に具現化したはずの”家族”でさえも、厳密にいえばシステムであって、まやかしだと言えてしまう。

それでも僕たちはそういったものにすがって、妥協して生きるより、社会を構成することができない。


それは小さな欺瞞。小さいけれど決して拭うことのできない欺瞞。フランクはその欺瞞に絡み捕られてしまった。

フランクは暴力的衝動の強い癇癪持ち。逸脱者。けれど、世界を肯定するためにどれほど多くの人が、たとえばジョーのように小さな欺瞞に妥協しているのか。どれだけの人が妥協なく欺瞞を超克して世界を肯定できるものなのか。


そのへんの疑問が、フランクの生来の傾向と罪、その正当性をどこまでも不透明にしているような。


ただ、映画のなかに大事な示唆がひとつあって、ジョーはかつて警官になる前はファーマーであり、そのときジョーはBURN=燃えていた。そのことをフランクから気づかされ、その感覚を取り戻そうと再び庭を耕しはじめる。

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