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絵と一回性

絵は基本だれにでも描けると思う。

でも「絵」を描こうすると描けない。

 

描くのは「描こうとするもの」であって絵ではない。

描こうとした結果できあがってくるものが絵と呼ばれるだけであって、はじめから「絵」を描こうとすると絵にならない。

(自分もよく失敗する。)

 

技術や方法や形式は関係ない。一度、絵が描けたからといって、同じ方法を辿っても、また絵が描けるとは限らない。

 

一回性。

 

でも世の中にはそうでないものの方がたくさんある。

社会は効率と再生産性だから。

子孫を残すってことも詰まるところ一種の再生産なのだから仕方ない。

むずかしい。

 

でも、やっぱり自分の生は一回性、コピーみたいな再生産的な毎日で満足というわけにはいかない。

 

| 日記 | 18:39 | - | -
AIと内発性

AIの労働力についてはいろんな意見あると思うけど、自分は労働はぜんぶAIがやってもいい派。

ただし、収入源を補う仕組み、ベーシックインカムなどの再分配や経済システムの改変が必要だろうけど。まあ、先の未来の話だけど。

 

でも今の自分にも直接関わるのは娘の将来と、あと、創作内容。

 

クリエイティブな仕事はAIにはできないとは全く思わない。AIは芸術作品も描けるし、企業経営、ベンチャービジネスも難なくこなすようになると思う。クリエイティブと思ってる仕事ほどAIにはかなわないと思ってる

 

問題は"目的"だと思ってる。目的を持つ仕事はすべてAIがこなせる。

"新しい感性で、新しい価値観を提示する"という目的がアートに存在する限り、アートはAIにこそふさわしい。

 

じゃあ絵描きも廃業か?そうとも言えるけど、そうとも言えないと思う。

 

さしたる目的もなく創作活動に没頭できる(してしまう)のは人間だけじゃないかと思うから。

 

人は何のために描くのか。

金のためではないし、はっきりした目的すらない。

描きたいから描くのだ。

もし仮にAIも同じように、描きたいから描く、ようになったとしたら、そのときAIは人間の労働生活を脅かす存在ではない。同志だ。


| 日記 | 18:38 | - | -
くり返す今日

昨日今日と、どうしようもない気分が続いて仕方なく、荒木経惟+杉浦日向子の「東京観音」を見て力を抜く。

 

杉浦日向子さんというのは初めて知ったんだけど、どことなく貫禄ありますね。観音様にかぶって見えるのは荒木さんの写真のせいばかりじゃないんだろう。観音様に「貫禄ある」って喩えはどうかな、別にして。

 

荒木さんに切り撮られた観音様は俗世にまみれて、ときに同化して、ときにハレーションを起こして、まさしく泥の中の蓮の花。街かどやらビルの影やら猫やら雑踏やらに混じって写っている。

 

「もともと観音は変化仏であり、衆生の声に応じ、卑近な姿となって俗世へ降り、これを救済する。観音は、人とともに喜怒哀楽の情をあらわす、いわばまだ悟りのきわみにいたらぬ修行途上の仏だ。それだから、仏くさくなくて、むしろ人くさい。」(『東京観音』杉浦日向子)

 

写真を見てると、旅に出たいなあって気持ちになる。近所の散歩だって時には旅になるのに、行けないときは行けないもの。外に出ないことには観音様も外の世界も見えてこないのは当然。そんなときにどうしようもない気分になるのかなって思う。

 

どうしようもない気分の発端は、「改正組織犯罪処罰法」なわけだけど、その発端の根本を探っていけば、観音様にもすがりたくなるような(嘘)どうしようもない人類の業にしか行き着かなかったりして、いつのまにか、どことなく時空が歪んだように感じられたりする。それもそもそも自分が籠もってしまっているからなのかもしれない。外に出ないとね。

 

ネットでは、ちょっと偏った(一般の人の)コメントも散見されて、そういう人たちを詳しく見たりすると、やはりこれも引き籠もり的な、閉鎖的な人格が見えてきたりして、やっぱり籠もってはいけない。政治の話もオープンに気軽に人と話せばいいんだろうなと思う。経験上の話でもある。

 

なぜ時空が歪むのか。いや、時空はもともと歪んでいて、そのことに改めて気づかされる、と言ったほうがいい。「東京観音」の中で杉浦さんが書き記した言葉がある。

 

「光陰矢のごとし、なんて、うそだ。時間は一直線に過ぎてはいかない。寄せては返す波だ。今来た波と、次来る波は別だけど、寄せては返し、そして、えんえんとつづく。昨日は今日の過去で、明日は今日の未来だ。この世には昨日も明日もなく、えんえんと今日がくり返される。吸っては吐いて、泣いては笑って、環(わ)をめぐる。生は死のはじまりで、死は生のはじまりだ。果てしないね。また、いつか、どこかで。」(『東京観音』杉浦日向子)

 

「因果応報」とか言うとなにか分かったような気分になってしまうけど、そこに知覚される、されつづけるものというのはやっぱりあって、なにかがくり返されてる。遠く未来に見える自分の背中は、過去の自分のものかもしれない。

 

”歯車がぜんぶきれいに噛み合って、法律がテロを、テロが戦争を、戦争がお金を、お金が平和を運んできたとしても、今いるこの場所の空気はなにも変わらないでありつづけるような気がする。”

 

おかしな表現だけど、自分が感じた歪みというのは、こういう感じ。なにも変えられないっていう諦念ではない。

 

結論なんてないんだけど、あえて言うなら、56億7千万年先の未来に人を救うという、観音菩薩ならぬ、弥勒菩薩、その果てしない未来の弥勒の背中は今現在の人間一人ひとりのものかもしれないなって思うこと。とくに勝ちもしない負けもしない、ただ闘いつづける今日があり続ける感じ。

(でも、くり返す時空はまったく同じというわけでもない)

| 日記 | 13:03 | - | -
エクスプレッション、デプレッション

なぜものを考えないでいられないのかと思う。

そのおかげでアイデアが出ることもあるが、このごろは将来のことを考えてイヤになる。

それでもそうやって考えたことや思ったことはこうして書きたくなる。たしか昔はもっとどんどん書いていたが、このごろは書いても書いてもうまく書けない、というか、うまく書けていないことに気づいてしまうので、あまり書かない。

それでも、書くとなにかを吐きだしたようことになるんだろうか、すっきりするので、これはやはり抑鬱、デプレッションの反対、つまりエクスプレッションなのだと思う。

 

もともと考えるから吐き出すべき内容が喉の奥なのかどこかに溜まっていくのだから、考えたすえに書いたり描いたりして吐き出すというのは、必ずしも生産的とはいえない気もする。それどころか、吐き出す内容を喉の奥なのかどこかに溜める行為をするかわりに活動して行動するとたくさんの行為となって、それが生産というものではないか、や、機械的なそれではなく創造というものもそうなのだ。

心は考えないときのほうがよくものを見る。感じると思う。

 

今朝見た夢はよかった。

奈良美智さんが猛スピードで自転車でこちらに走ってくる。こちらも全力で自転車を漕いでいる。猛スピードですれちがいざま挨拶をした。奈良さんは元気そうだった。

通りすぎたあと、ふと、猛スピードで寒かったので自分の着ていたジャンパーを奈良さんにあげようと思いついた。自分も寒かったが、あげるという献身的な思いつきに自分で自分に感動した。夢だから。

大急ぎで大声で奈良さんを呼び止めながら引き返した。間に合わないかと思ったが、奈良さんにも通じ、止まってくれた。奈良さんはいい人だ。自分はいつもそう思っている。奈良さんはいい人。そして、奈良さんがいい人であるほど、自分はわるい人になっていく。だから、そして、つまり、奈良さんにあげたジャンパーは、自分のではなかった。それはもともと奈良さんのジャンパーだった。

 

奈良さんが行ってしまったあとには埃みたいにミドリのくずが散らばっていたので、ひとつのこらず探して拾った。手のひらいっぱいになった。いい人の落としていったくず。やっぱり奈良さんもミドリが必要なんだと思って安心した。(ほんとは奈良さんはお酒が好きなはずだから、事実とは違うとあとで気づく。)

そのくずを拾い集めたころにだれかがやってきて、分け前をねだる。よく知ってる奴だが夢だからどうも思い出せない。

あれはだれだっただろう。

 

夢はいい。夢をひきずって、朝にいちばん物思いに耽る。または書く。描く。そうしていればエクスプレッション。そうできなければデプレッション。

| 日記 | 11:42 | - | -
ゲシュタルト崩壊な日々と創作

木皿泉という人の「昨夜(ゆうべ)のカレー、明日のパン」という小説を読んだ。

 

娘と行った図書館で、娘が本を探しているあいだ、借りるつもりもないのに手に取ったこの本の冒頭に出てくる女のあだ名が「ムムム」というのにひかれて、なんとなく借りた。

 

「ムムム」というのは、笑えなくなった女にお隣さんがつけたあだ名で、『機嫌が悪いのなら「ムッ」とした顔をすればいいのに、それを隠そうとするものだから、怒ったような困ったような眉をひそめたムムムという顔』になるから。

 

なんてことない小説だった。というと失礼だし、話も終わってしまうのだけど、なんてことない小説は、好きだ。

 

映画とかもそうだけど、小説も、割と冒頭のあたりで(たぶん自分にとって)おもしろいかどうかの判断がつく。言葉にするなら「辻褄があってる」というような。

 

地面があるから、足でその地面を踏みしめて立つことができる、そんなような当たり前のこと、そういう、なんてことない辻褄なんだけど、その積み重なりでできた、なんてことないもの。

 

「作ってるな」と白けてしまうものは、どこというのでもなく、でもはっきりと、辻褄が合ってない。創作なのだから基本ぜんぶ作ってあるのだけど。

 

「作って」ないもの、なんてことないもの、ただそれだけのことじゃないのかもしれないけど、そういうものにふれると、自分もなんかやってみよう、やれるかも、というような意欲が沸いてくることがある気がする。なぜだろう。

 

件の小説の中で、主要人物のテツコとギフ(義父のあだ名)は、夫(ギフには息子)を病気で亡くすんだけど、その夜の暗い帰り道、『寒かったし、悲しかったし、二人とも疲れきって口もきけなかった。その時、行く先にポツンと明かりが見えた。近づくとパン屋だった。』

 

『もう夜の十二時を過ぎようとしていたのに、中では昼間のように人が働いていた。テツコとギフが入ると、「もうすぐ新しいのが焼き上がりますよ」と店の人にいわれ、二人は待った。その時の二人は待つのに慣れきっていた。病院のあらゆるところ、検査結果を聞くための部屋や支払所、手術室、詰め所などで、ただひたすら待っていたからだ。』

 

『パンの焼ける匂いは、これ以上ないほどの幸せの匂いだった。店員が包むパンの皮がパリンパリンと音をたてたのを聞いてテツコとギフは思わず頬笑んだ。』

『悲しいのに、幸せな気持ちになれるのだと知ってから、テツコは、いろいろなことを受け入れやすくなったような気がする』

 

どことなく、この一節と意欲の源(みなもと)がリンクする。

 

 

AIの発達がすごくて、囲碁なんかも人間棋士のおよびもつかない棋譜で進んでいくらしい。無意味にしか思えない打ち手が最終的な段階でようやく理解できるというような。

 

だれかが「経営なんかもそうなるかも。意味わかんない合併やらなんやらが、最終的には大成功みたいな。」と言ってたが、創作の分野だってそうかもしれないと思う。

 

人間のすることは、創作だって、解析可能な過程を経たもののはずで、その「結果」においては、AIは人間を凌ぐと考えるほうが自然に思える。

 

でも、いくら解析可能であっても、人間にとって、創作にまつわる結果はあくまで結果であって目的ではない。忘られがちだけど。

 

創作する理由ってなんだろう、という本質的な問い。

目的なんかないんだよね、っていう繰り返される答え。

 

『悲しいのに、幸せな気持ち』

なんてことないけど、無意味かもだけど、やりたい気持ち。

 

 

件の小説の、夕子(テツコの義母、ギフの妻)の病床での気持ちの描写。

『今や、(庭の)銀杏の木と自分に境目はなくなりつつあった。モノというモノの名前が全て消え去ろうとしている。いつか、一樹(息子、テツコの夫)を抱いて庭を見ていた時に感じた、あの不思議な心持ちだった。それは、借りていたものを一切合切、ようやく返してしまったような気持ちのよさだった。」

 

名前という「意味」が、ときには目的にさえなったりもするのが社会なのかなって思うことがある。

そういう借りもの、かりそめを返してしまうと、あとに残るのは、意味やら目的ではなくて、さて、なんだろう。

| 日記 | 06:27 | - | -
大きくなったらオバケになる

「こちゃん、おれ大きくなったらオバケになるよ」

「なにそれ?」

「歩きたいとこ好きに歩きたいんだ。通行止めとか立ち入り禁止の看板あるだろ?あの先だって行けないことないんだよ。靴とか服とかちょっと汚れるけどね。川っぺりの石垣よじ登ったり、人ん家の庭とかかすめたりしながら。」

「やばいよ!」

「そう。人にみつかっちゃうと泥棒とか不審者に思われてやばい。でもオバケだったらあやしくない。」

「こわいよ〜!」

「でも見た人もあきらめつかない?オバケならしょーがないかって。」

「んー。。」

「大きくなるとみんなきれいな恰好して気取ってないといけないでしょ?そんな恰好してると立ち入り禁止のとこだって入れない。」

「だって立ち入れ禁止のとこ入ったってなんにもないじゃん。」

「うん。なんにもない。でもだれも歩かないとこ歩ける。大きくなるときちんとした恰好してないとそれだけで不審者じゃん?でもオバケになれば自由だぜ!人間だとすら思われないから夜中に塀よじ登っても平気だよ。ただし、犬には要注意。やつらは突然吠えてくるからやばい。」

「それで、そんなことして、あんた一体なにがしたいんだよ!」

「新大陸発見!」

| 日記 | 02:50 | - | -
久々の文章

絵について言われていちばんうれしいのは「(自分も)絵が描きたくなる」である。

毎日描いてるはずの絵描き仲間に言われるとなおうれしい。

 

ところで、自分が「文章を書きたくなる」となるのは川上未映子である。

同じ関西人であることがそのいしづえにあるのかどうかは定かでないが、川上さんの文章にそのツボはあって、読むと作文欲求がほとばしるのである。

 

寝る前の10分間の、どうにも居たたまれないこの頃を慰めるべく、今日は図書館で川上氏のエッセイを借りた。そして借りただけで読んでもないのに、すでにほとばしる作文欲求が溢れ出ておそるべし。まさにいま、ものすごく久しぶりに文章を書いているのであるから。

 

このごろは文章を書かなくなってしまった。震災がきっかけだと思っている。

自分が震災で失ってしまったのは「文章」だった。

 

(せっかく書くのが好きなのだから)積極的に社会的な発言を書かねばならないという気持ちがはたらいた。しだいに文章も自分自身も堅苦しくなって、とうとう書かなくなった。

 

この「書かねば」は「描かねば」とも、もちろん似ている。

絵も文章もたのしいから描く(書く)のに、そこに「ねば」がやってくるのである。

 

そしてこれがなかなかふりほどけない。

「とはいえ、まじめにやってかないと日本まじでやばいから」と思うし、また、「まじめに描かないと自分の絵は家族の犠牲の上に成り立っているのだから」とも思う。まったくもって事実ではあるのだけど、「たのしい」を罪悪に変えてしまう同根のこの義務的感覚。

 

人の絵を見て、自分も描きたくなる気持ちは自分自身よく経験する。

そういう絵は描くのがたのしそうに見えるのである。

そして実際たのしくないわけもなかろう。

 

文章だって、たのしいから書くのである。

ほんとは伝えたいことすらないのかもしれない、とおもう。

絵も文章も。

 

 

ちなみに図書館では川上未映子といっしょに多和田葉子を借りてきた。

なぜか自分のなかには「この世でいちばんオシャレな本は多和田葉子だ!」という漠とした思いがある。

読むとちょっぴりねむくなる。

| 日記 | 14:16 | - | -
ディズニーの白雪姫のすごいとこ

ディズニー初の長編アニメ1937年作品「白雪姫」を繰り返し観てる。

ウォルトディズニーの魂を見るような、ほんとうに手間ひまと愛情のかかった作品だなあと感動した。

全編どの部分を取っても素晴らしいなあとつくづく思うのだけど、その中でも姫が継母の魔手から逃れるため森に逃げ込む場面から小人の家に落ち着くまでの場面に、僕はとくに感銘した。

まさにディズニーならではの恐ろしい森の悪夢が、白雪姫の、たったいま殺されそうになり、またそれが継母の指示だったと知り、悲しいやら恐ろしいやら、突如として身の上にふりかかった厄災とトラウマを、この森の悪夢が表現していて、ついに白雪姫はひれ伏して泣き崩れてしまう。

そこに森のかわいい動物たちが姫の悲しい泣き声に寄せられてやってくるのだが、びっくりした白雪姫に森の動物たちもびっくりして、森に逃げ込んでしまう。

そこで普通なら(少なくとも僕なら)かまわず泣き続けるか、せいぜい逃げ出されたことに余計悲しむくらいのことだと思うが、白雪姫はここで泣きやみ、自分はさておき、驚かせてしまった動物たちにごめんなさいと謝り気遣う心をみせるのだ。

さらに、ごく素直に自分の境遇を説明し、どうすればいいと思う?とまるで近所の道を尋ねるみたいに軽やかにやさしく尋ねる。そして唄えばいいのね!と受け止めて、鳥と一緒に唄い始める。唄えばそこに和ができて輪になって森のかわいい動物たちはみんな白雪姫と仲良しになってしまう。

それからその仲良しになった動物たちに案内を請うて、小人の家に辿り着く。そこで白雪姫は自分の得意な家事を活かす条件を見つけ出して仲間と一緒に唄いながら元気に取り組む。

結果、白雪姫は小人たちの歓迎を受けて自分の居場所を確保する。

この流れを見て、そんなことは話がうますぎると思うかもしれないが、こうだから白雪姫はハッピーエンドを迎える。その根拠がこの場面のなかに完全に表現されてあるのだ。

この流れはアニメを”美しく”つくるうえで必要な流れであるというかもしれない。いつまでもメソメソしていては話が進まないし、走るときはバレエダンサーのように美しく明るく走るほうがよい。実際、ディズニーの白雪姫の洗練された過不足なく表現的な動きはたぶんバレエダンサーをキャプチャーしたものだろう。

すべての動きが計算され尽くしたようでいてとても自然なのは、ウォルトディズニーの才能なんだと思う。真相は、ひとつひとつのキャラクターやその動きを丹念に描き、それらがもっとも理に適ったやり方でつぎの動きや場面を呼び込み連なってできていったのだろうと想像する。それは作品に対する深い愛情と情熱がなければできない。

そしてそれがそのままヒロインの白雪姫にも当てはまる。目の前のひとつひとつを大切に慈しむ白雪姫の姿はそれ以前の場面でも描かれている。鳥に話しかけることは超能力でも病気でもない、目の前の世界に愛情と好奇心を持って接していることの顕れでもある。

ひとつひとつの出来事に集中することで目の前の出来事に最大限の力で対処できるし、それがポジティブな気持ちから始まっているのなら、実際、唄もうつくしく響き、和もうまれる。だから白雪姫は大願を成就したのだと納得できる。そして同時にウォルトディズニーのこの作品がすばらしいことも白雪姫の成就も、当然にして相似的な関係にあるのだ。

そういう物語に僕は強く勇気づけられる。

それでも、大願が成就するのは稀なる美貌があったからというかもしれないし、同様に稀なる才能があったからこのような作品が作れたのかもしれない。

それはたしかにその通りだと思う。誰にでもこんな作品が作れたりはしない。いや作れる必要がないのだ。成就するものがどんなに小さなものであっても、実際のところその大小は関係ない。ただやりきった充実感だけが誰にも平等に、や、白雪姫のようにポジティブに受け止める人間により多く、やってくるということだけが問題なんだろうと思う。

| 日記 | 11:37 | - | -
感情の噴水

いちおう国内産なんだけど、産地の記されてない米を食べるのってはじめてかも。

近所にみつけたお米の自動販売機で買った。目に入ってはいたんだけど精米器かと思ってたら販売機だった。5キロ千円って安いから。

ふつう記されてるはずの産地表記がないとなんだか心細いご時世で、そのちょっと不安な感じがあるからかどうなのか、米の味がイマイチで心細い。

安いだけあって古々米とか古々々米とかなのかな。震災以降の不安のほうも浮かぶんだけど、実際そっちのほうは味には関係ないよね。でも作り手がすっかり元気なくなっちゃって味にも影響することもあるのかなあなんて、もうすっかり空想。

でも、そういう不安な気持ち、感情とか、そういうものがいろんなものに影響してる。ぜんぜん別の問題なのに、空想的な気持ちに感情がはたらいて、ほとんど暴走みたいに無関係の方角へと突っ走っていく感じ。

感情つまり気持ちのゆらめきのようなものは絵描きや芸術家なんかには必要のように思われるかもしれないけど、実際に必要なのは感じることとそれを見つめる目であって、感情のほうは邪魔にしかならない。パッションというものには役に立つこともあるのかもしれないけど。

そんな結構無用な感情が、ふつうならあるはずの産地の表示がないとそれはそれはドキドキして、産地がわかるとやっぱり少しホッとする。でもいつでも産地が分からないと不安かというとそうでもない。食品になってる原材料の産地まで僕はあまり気にしないし、それでいったら産地どころかその材料がいったいどんなものなのかよくわからないものが入っていても案外平気だったりする。

ふだんの表示の事情しだいで、それに慣れちゃってる。いつもある表示がなければ不安になるし、なければないで、それがいつもの事情であれば気にすることもない。かなしいとこに日常感覚なんてその程度だったりする。

その程度の日常感覚に日常的に感情がついてくる。理性で抑えているけれど、感情は世の中のいろんな事情に流れて右往左往して渦巻いてる。ほんのふとした拍子にそれが噴出する。

世間のあっちこっちで噴出する感情が右往左往して、炎上したり計画が中断したり。でもどこで噴出するんだか、実はだれにもわからなくって対処のしようもない感じ。でも自分自身の感情の噴出を見ていると、そんなに気にするほどのこともないなあと思ったり。なんせ暴走する感情のほとんどは空想なのかもしれないし。

どうせ打つ手もないのなら、気にせずのびのび行こうかなって思います。

| 日記 | 13:39 | - | -
宇宙に行ってみたい?行きたくない?
宇宙に行ってみたい?行きたくない?

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宇宙に行ってみたいか?行きたくないか?

僕は行きたい。

ロケットで数十秒だけ地球を眺めるだけでもいい。
新しい見え方ができるようになるかもしれない。

宇宙っていうのは未知との遭遇だ。
新しい発見があると自分の世界もすこし違って見えてくる。
それが楽しそう。

宇宙人にも会ってみたい。
どんな姿、かたちをしているのか想像するだけでもおもしろい。
でも実物はきっと想像を超えてぜんぜん違うんだろうな。

僕は宇宙に行ってみたい。
というか、暮らしてみたい。

どうやって暮らすか?
宇宙ステーションか、テラフォーミングか、それとも。。

僕はアメリカの宇宙開発が中断したとき、
「やっぱり人間は重すぎるんじゃないの?」
と、思った。
宇宙に人間を打ち上げるには、人間は重すぎると思う。

だって、人間が宇宙で暮らすには身体ひとつあればいいってものじゃない。
宇宙でも快適に暮らすにはベッドがいるし、布団がいるし、ソファやテレビや家も欲しくなる。
食べ物ももちろん必要だし、クルマも欲しいし、近所には友達も住んでいてほしい。
クルマがいるならGSも必要だし、家族が暮らせば学校もいるし役所もいる。

街全体が宇宙に引っ越さないと人間は結局のところだれも暮らせないことになる。
だから人間は”重い”のだ。

それでも宇宙に暮らしたい。
そう思う人は僕だけじゃないと思う。

そこで考えた。
まず思いついたのは火星移住だ。
火星に街を作るのだ。

けれど宇宙船で街の材料を運ぶのはたいへんだ。
人間は重いのだから。

けれど、僕は考えた。
3Dプリンターを思い浮かべた。

火星へ3Dプリンターを送り込むのだ。
そして自動で次々と火星に機械を作り上げる。
ベッドを作る3Dプリンターをナノマシーン3Dプリンターが作りあげるのだ。
家をつくる3Dプリンター、街をつくる3Dプリンター、
そして、人間をつくる3Dプリンターを作る。

クローン人間だ。
移住したい人のクローンを火星に作り出す。
もちろんそれだけでは本人が火星に移住したとはいえない。

どうするのかというと、
本人の”心”を電波に変えて、火星まで飛ばすのだ。
そして、クローンにその心を移植する。

心をデータ化するのだ。
そうすれば重さはほとんどゼロになる。
そうすれば、宇宙をかなり自由に移動できる。

でも、クローンは倫理問題がややこしい。
自分が二人になるんだから。
いつも片方を処分しないといけない。

じゃあ、そもそも身体がなければどうだろう?
データ化した心はたしかにコピー可能かもしれないけど、
身体という断定的な存在がなくなれば、
すこしなにか違ってくるかもしれない。

人間は生きるのが苦であるという思想がある。
宗教のほとんどはそう教えてきた。
そして、その苦のぜんぶは身体があることから起こってくる。

身体は苦の元なのだ。
その元の身体がなくなるというのは、人間にとって
たいへんな進歩かもしれない。

倫理問題で結局、実現しなかった火星移住だけど、
もしも人間の心がデータ化できたら、
もしも人間に身体が必要なくなったら、
ベッドも布団もソファも家も、
食べ物もクルマも街も、ぜんぶいらなくなる。

人間はすごく軽くなる。というか重さがなくなる。
それなら宇宙に暮らす問題もずいぶん簡単かもしれない。

人間は心だけのエネルギー体みたいなものになって
宇宙で暮らすのだ。

かたちや重さのある物質なんて、もういらない。

そう考えると、幽霊とあまり違わないかもしれない。
それに、宇宙人だって、もしかしたらそんな姿なのかもしれない。

これでやっと地球人も宇宙人になれる。
| 日記 | 13:10 | - | -
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