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ディズニーの白雪姫のすごいとこ

ディズニー初の長編アニメ1937年作品「白雪姫」を繰り返し観てる。

ウォルトディズニーの魂を見るような、ほんとうに手間ひまと愛情のかかった作品だなあと感動した。

全編どの部分を取っても素晴らしいなあとつくづく思うのだけど、その中でも姫が継母の魔手から逃れるため森に逃げ込む場面から小人の家に落ち着くまでの場面に、僕はとくに感銘した。

まさにディズニーならではの恐ろしい森の悪夢が、白雪姫の、たったいま殺されそうになり、またそれが継母の指示だったと知り、悲しいやら恐ろしいやら、突如として身の上にふりかかった厄災とトラウマを、この森の悪夢が表現していて、ついに白雪姫はひれ伏して泣き崩れてしまう。

そこに森のかわいい動物たちが姫の悲しい泣き声に寄せられてやってくるのだが、びっくりした白雪姫に森の動物たちもびっくりして、森に逃げ込んでしまう。

そこで普通なら(少なくとも僕なら)かまわず泣き続けるか、せいぜい逃げ出されたことに余計悲しむくらいのことだと思うが、白雪姫はここで泣きやみ、自分はさておき、驚かせてしまった動物たちにごめんなさいと謝り気遣う心をみせるのだ。

さらに、ごく素直に自分の境遇を説明し、どうすればいいと思う?とまるで近所の道を尋ねるみたいに軽やかにやさしく尋ねる。そして唄えばいいのね!と受け止めて、鳥と一緒に唄い始める。唄えばそこに和ができて輪になって森のかわいい動物たちはみんな白雪姫と仲良しになってしまう。

それからその仲良しになった動物たちに案内を請うて、小人の家に辿り着く。そこで白雪姫は自分の得意な家事を活かす条件を見つけ出して仲間と一緒に唄いながら元気に取り組む。

結果、白雪姫は小人たちの歓迎を受けて自分の居場所を確保する。

この流れを見て、そんなことは話がうますぎると思うかもしれないが、こうだから白雪姫はハッピーエンドを迎える。その根拠がこの場面のなかに完全に表現されてあるのだ。

この流れはアニメを”美しく”つくるうえで必要な流れであるというかもしれない。いつまでもメソメソしていては話が進まないし、走るときはバレエダンサーのように美しく明るく走るほうがよい。実際、ディズニーの白雪姫の洗練された過不足なく表現的な動きはたぶんバレエダンサーをキャプチャーしたものだろう。

すべての動きが計算され尽くしたようでいてとても自然なのは、ウォルトディズニーの才能なんだと思う。真相は、ひとつひとつのキャラクターやその動きを丹念に描き、それらがもっとも理に適ったやり方でつぎの動きや場面を呼び込み連なってできていったのだろうと想像する。それは作品に対する深い愛情と情熱がなければできない。

そしてそれがそのままヒロインの白雪姫にも当てはまる。目の前のひとつひとつを大切に慈しむ白雪姫の姿はそれ以前の場面でも描かれている。鳥に話しかけることは超能力でも病気でもない、目の前の世界に愛情と好奇心を持って接していることの顕れでもある。

ひとつひとつの出来事に集中することで目の前の出来事に最大限の力で対処できるし、それがポジティブな気持ちから始まっているのなら、実際、唄もうつくしく響き、和もうまれる。だから白雪姫は大願を成就したのだと納得できる。そして同時にウォルトディズニーのこの作品がすばらしいことも白雪姫の成就も、当然にして相似的な関係にあるのだ。

そういう物語に僕は強く勇気づけられる。

それでも、大願が成就するのは稀なる美貌があったからというかもしれないし、同様に稀なる才能があったからこのような作品が作れたのかもしれない。

それはたしかにその通りだと思う。誰にでもこんな作品が作れたりはしない。いや作れる必要がないのだ。成就するものがどんなに小さなものであっても、実際のところその大小は関係ない。ただやりきった充実感だけが誰にも平等に、や、白雪姫のようにポジティブに受け止める人間により多く、やってくるということだけが問題なんだろうと思う。

| 日記 | 11:37 | - | -
感情の噴水

いちおう国内産なんだけど、産地の記されてない米を食べるのってはじめてかも。

近所にみつけたお米の自動販売機で買った。目に入ってはいたんだけど精米器かと思ってたら販売機だった。5キロ千円って安いから。

ふつう記されてるはずの産地表記がないとなんだか心細いご時世で、そのちょっと不安な感じがあるからかどうなのか、米の味がイマイチで心細い。

安いだけあって古々米とか古々々米とかなのかな。震災以降の不安のほうも浮かぶんだけど、実際そっちのほうは味には関係ないよね。でも作り手がすっかり元気なくなっちゃって味にも影響することもあるのかなあなんて、もうすっかり空想。

でも、そういう不安な気持ち、感情とか、そういうものがいろんなものに影響してる。ぜんぜん別の問題なのに、空想的な気持ちに感情がはたらいて、ほとんど暴走みたいに無関係の方角へと突っ走っていく感じ。

感情つまり気持ちのゆらめきのようなものは絵描きや芸術家なんかには必要のように思われるかもしれないけど、実際に必要なのは感じることとそれを見つめる目であって、感情のほうは邪魔にしかならない。パッションというものには役に立つこともあるのかもしれないけど。

そんな結構無用な感情が、ふつうならあるはずの産地の表示がないとそれはそれはドキドキして、産地がわかるとやっぱり少しホッとする。でもいつでも産地が分からないと不安かというとそうでもない。食品になってる原材料の産地まで僕はあまり気にしないし、それでいったら産地どころかその材料がいったいどんなものなのかよくわからないものが入っていても案外平気だったりする。

ふだんの表示の事情しだいで、それに慣れちゃってる。いつもある表示がなければ不安になるし、なければないで、それがいつもの事情であれば気にすることもない。かなしいとこに日常感覚なんてその程度だったりする。

その程度の日常感覚に日常的に感情がついてくる。理性で抑えているけれど、感情は世の中のいろんな事情に流れて右往左往して渦巻いてる。ほんのふとした拍子にそれが噴出する。

世間のあっちこっちで噴出する感情が右往左往して、炎上したり計画が中断したり。でもどこで噴出するんだか、実はだれにもわからなくって対処のしようもない感じ。でも自分自身の感情の噴出を見ていると、そんなに気にするほどのこともないなあと思ったり。なんせ暴走する感情のほとんどは空想なのかもしれないし。

どうせ打つ手もないのなら、気にせずのびのび行こうかなって思います。

| 日記 | 13:39 | - | -
宇宙に行ってみたい?行きたくない?
宇宙に行ってみたい?行きたくない?

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宇宙に行ってみたいか?行きたくないか?

僕は行きたい。

ロケットで数十秒だけ地球を眺めるだけでもいい。
新しい見え方ができるようになるかもしれない。

宇宙っていうのは未知との遭遇だ。
新しい発見があると自分の世界もすこし違って見えてくる。
それが楽しそう。

宇宙人にも会ってみたい。
どんな姿、かたちをしているのか想像するだけでもおもしろい。
でも実物はきっと想像を超えてぜんぜん違うんだろうな。

僕は宇宙に行ってみたい。
というか、暮らしてみたい。

どうやって暮らすか?
宇宙ステーションか、テラフォーミングか、それとも。。

僕はアメリカの宇宙開発が中断したとき、
「やっぱり人間は重すぎるんじゃないの?」
と、思った。
宇宙に人間を打ち上げるには、人間は重すぎると思う。

だって、人間が宇宙で暮らすには身体ひとつあればいいってものじゃない。
宇宙でも快適に暮らすにはベッドがいるし、布団がいるし、ソファやテレビや家も欲しくなる。
食べ物ももちろん必要だし、クルマも欲しいし、近所には友達も住んでいてほしい。
クルマがいるならGSも必要だし、家族が暮らせば学校もいるし役所もいる。

街全体が宇宙に引っ越さないと人間は結局のところだれも暮らせないことになる。
だから人間は”重い”のだ。

それでも宇宙に暮らしたい。
そう思う人は僕だけじゃないと思う。

そこで考えた。
まず思いついたのは火星移住だ。
火星に街を作るのだ。

けれど宇宙船で街の材料を運ぶのはたいへんだ。
人間は重いのだから。

けれど、僕は考えた。
3Dプリンターを思い浮かべた。

火星へ3Dプリンターを送り込むのだ。
そして自動で次々と火星に機械を作り上げる。
ベッドを作る3Dプリンターをナノマシーン3Dプリンターが作りあげるのだ。
家をつくる3Dプリンター、街をつくる3Dプリンター、
そして、人間をつくる3Dプリンターを作る。

クローン人間だ。
移住したい人のクローンを火星に作り出す。
もちろんそれだけでは本人が火星に移住したとはいえない。

どうするのかというと、
本人の”心”を電波に変えて、火星まで飛ばすのだ。
そして、クローンにその心を移植する。

心をデータ化するのだ。
そうすれば重さはほとんどゼロになる。
そうすれば、宇宙をかなり自由に移動できる。

でも、クローンは倫理問題がややこしい。
自分が二人になるんだから。
いつも片方を処分しないといけない。

じゃあ、そもそも身体がなければどうだろう?
データ化した心はたしかにコピー可能かもしれないけど、
身体という断定的な存在がなくなれば、
すこしなにか違ってくるかもしれない。

人間は生きるのが苦であるという思想がある。
宗教のほとんどはそう教えてきた。
そして、その苦のぜんぶは身体があることから起こってくる。

身体は苦の元なのだ。
その元の身体がなくなるというのは、人間にとって
たいへんな進歩かもしれない。

倫理問題で結局、実現しなかった火星移住だけど、
もしも人間の心がデータ化できたら、
もしも人間に身体が必要なくなったら、
ベッドも布団もソファも家も、
食べ物もクルマも街も、ぜんぶいらなくなる。

人間はすごく軽くなる。というか重さがなくなる。
それなら宇宙に暮らす問題もずいぶん簡単かもしれない。

人間は心だけのエネルギー体みたいなものになって
宇宙で暮らすのだ。

かたちや重さのある物質なんて、もういらない。

そう考えると、幽霊とあまり違わないかもしれない。
それに、宇宙人だって、もしかしたらそんな姿なのかもしれない。

これでやっと地球人も宇宙人になれる。
| 日記 | 13:10 | - | -
コピー問題

2020東京オリンピックのエンブレムの盗用疑惑で佐野さんという方がネットを通じてリアル炎上した件。

ネットというものがこのように人も殺しかねないほど自由だってことかなって思う。気持ちとしては同情が強いかも。

このことについて、いろんな人がずっと話題にしてる。おもしろいんだと思う。ワイドショー的にというより、ネット社会や時代を映す鏡になってる。いろんな視点から問題を切り取れる。だから自分も書いてみようと思う。

僕も検索画像を元にたくさん絵を描いている。

基本的にモデル代わりに使うけど、特に新しいシリーズの描き始めなんかは画像の影響を強く受ける。パクりの範疇かもしれない。

0から作り上げるものの魅力はやっぱり大きい。

ちょっとでもパクりが入っていたら気持ちは冷める。

いくら理屈を言ったって感じることは止められない。

その感じがふつうにみんなにあったと思う。

でも0からはたいへん。

どんな偉人でも先人の智慧を借りて自分の仕事を進める。

まさかこの人の作品にも元ネタがあったなんて、、という落胆はだれでも一度はすると思う。

自分のことでいうと、人物のポーズほんとむずかしい。

考えて試行錯誤して、結局昔ながらのポーズや配置がいいんだと気づかされたり、検索画像の何気ないポーズが逆にぴったりきたりする。

人物にしろ背景にしろ想像だけではなかなかうまく描けない。

どっちにしても、ネットの力を借りて仕事を進めることは悪くないと思う。

目的がそこでなければ。

(佐野さんの仕事からは目的がまるで見えてこないからいけなかったんじゃないかと思う。)

”サンプリング”は僕にとって黒人音楽がレコードを楽器にしたことから始まっているので基本OKだ。クリエイティブだと思う。お金もかからない笑。

表現したいものがサンプリングしたものとかぶらなければクリエイティブだと思う。(佐野さんの話ではない。)だれにでもチャレンジできるというのもクリエイティブだ。

いま、検索画像を使わないなんてソンだと思う。

けど、だからこそ使わない、のももちろんいい。

画像や音源がいろいろ簡単に使える、などの「社会的な条件」というのは関わり方しだい、使い方しだいで、使っても使わなくても時代を表現できると思う。

ただ、その条件をなかったかのごとく排除するのはクリエイティブじゃないと思う。

新しい時代の条件はどんどん受け入れていきたい。受け入れたうえで否定するのはおもしろい。

否定的なものを肯定的に捉えていくのはおもしろい。

有名な人は一度はかならずネットの炎上を経験するらしいけど、はじめのうちは炎上って避けたいものに思えてたけど、いまではあまり深刻に考えない。たかがネットでのことだし。

炎上商法したいなのも出てきたし。

だからってわけじゃないけど、佐野さんもたいしたことなければいいと思う。

とにかく否定的なものがそうでなくなって、世の中の価値が変質していく感じは見ていてもおもしろい。

「盗用問題」も、これを機会にサンプリングのあり方にひとつのラインが見えたのかもしれない。みんなの納得するサンプリング、直感的に受け入れられない下手なサンプリングという境界。それが見えたことでサンプリング文化がまた成熟するかもしれない。

たぶんデザインやらサンプリングやらに関わる人の多くが自分を見つめ直したと思うし、僕もそう。正か否か、自分のライン引きを引き直すいい機会だ。そこから次のアイデアも出て来る。

あと、話がちょっと変わるけど、画像検索で出てくる画像って世界のごく一部。膨大で無限のようでいて、世界のほんの一部の時代と場所が映っているだけだと思う。

その画像イメージがたとえば「山」のパブリックイメージを決定していたりすると思う。

人の顔などでいえば、たとえばマリリンモンローやエルビスなど、や、数え上げたらキリがないんだけど、それでも人の顔の全部でいったらごく一部が代表している。

そしてその多くが50〜80年代の画像な気がする。テレビ時代。それ以前以降もあるけどピークじゃないかと思う。アンディウォーホルなんかの時代。ウォーホルが示したように80年代はコピー時代の幕開けだった。そして、実はそれまでの時代で「オリジナル」はほとんど出尽くしているんじゃないかとも思える。あとはモンローの顔をコピーし続けるだけ。

僕たちは時代の晩年、コピー反芻の時代に生きている感じがする。

ただ、状況としてはコピーし続けてるだけでも、そのコピーはモンローの顔を解釈し続けるってことであって、クリエイティブだし、悪くはないと思う。(佐野さんの話ではない。再度)

| 日記 | 12:31 | - | -
ブログを始めて10ねん。

いつのまにかこのブログを始めて10年経った。

30枚一組の絵を1ピースごと30人の持ち主の中でピース同士を交換してもらって交流してもらうっていうGIFTという企画から始まったブログで、30人の方々の掲示板みたいなつもりで始めたんです、元々は。

でも結果、企画は進行せず、ブログはわたくしSal専用のブログみたいになっちゃってる。

一応、絵描きなので、表現者としての立場から個人的に思うことをそのまま素直に書いています。企画は中断しっぱなしでも自分が責任とれるのは、このブログを続けることかなと思って。

でも、最近はSNSとかで、ブログを投稿するっていう気分が出て来ず、投稿もご無沙汰になってる。文章書くのは好きだし、せっかくなら読んでほしいのでFBとかにブログの気分半分で投稿したりしていて、文章を書かなくなったわけではない。

それでも、ひさしぶりにアクセスログを開けてみると、今でもページを閲覧してくれている人がいるみたいで、とてもうれしかった。

少ない日もあるけど、たまにたくさんになっていたりして、「やっぱり続けていきたいな」と思った。

だからというわけでもないんだけど、この10年間、ブログに投稿した文章で、いいのを選んでジンかなにかにしたいなと思う。画集もだしたことないのに、文集みたいな感じで文章を本にしたいなって思う。じっさい画集出すより情熱があるかも笑。

手作りで文集。つくりたい。

| 日記 | 00:33 | - | -
小林秀雄と三木清の対話抜粋

小林秀雄と三木清の短い対話(1941年)を勝手に編集。

ときどき、(* )の原文を勝手に置き換え↓

-

(前略)

三木「今にまたドストエフスキーなんかが流行る時代が来るかも知れないね。」

小林「うん、どうもやっぱり、ああいう人の困った問題というものは永遠の問題だから。」

三木「人生の謎というものはいつも同じだね。」

小林「やはり同じところに立ち返ってくるのだな。」

三木「人間というものは進歩しないね。科学が発達すれば戦争が無くなるとよく人が言っていたが、そんなことは嘘だということは、今度の戦争で証明されたわけだ。なにしろそういうものだな。進歩の思想は人間を浅薄にする危険があるね。」

(中略)

三木「(前略)今日教養といっているもので本を沢山読んでいるとか、ものを沢山知っているということが特別のことでなくて、なんでもない当たり前のことになってこなければならん。そういうものがほんとの知識人でないということがわかってこなければならんと思う。ところが、今ではまだそれが何か特別のことのように考えられているんだね。」

小林「そうだな。だけど、青年というものは皆そういうものは持っているという気がする。真の教養なり思想なりの芽生えというものを持っている。持っているが、それが育たない。芽が伸びないところがある。大人になるといろいろなことで摘んでしまうね。小説家になって摘んでしまう。評論家になって摘んでしまう。科学者になって摘んでしまう。それから俗人になって摘んでしまう。そういうところがあるよ。」

三木「結局、一番欠乏しているのは実験的精神だと思う。」

(中略)

三木「近代の科学者は教養人というものと違う。読書が学問であるという伝統を変革したところに近代科学のえらさがある。その精神は教養というものとは違うもっと原始的なものなんだな。そういう精神を、科学ばかりでなしに、ほかのものにおいてももっと掴まなければならないのじゃないかと思う。」

(中略)

三木「現代人(*近代人)の弱さというのは、ネット(*新聞)を読むね。ネット(*新聞)に出ていることで自分に関することはたいてい嘘が書いてある。それだのに、ひとの事が出ていると誰でもそれを信ずる。そういうところに現代人(*近代人)の欠陥がある。ものにぶつかって究めるということが少ないわけなんだね。」

小林「どういうことろからそういう論を立てるかね。」

三木「それは今言ったように世界共通のものだが、特に日本人の欠陥でもあると思う。というのは本を読むことが学問だというような観念がなかなかぬけきらないのだね。昔から支那のことをやるにしても、支那へ行かないで支那の本を読んでやる。全然西洋を観たことのない人間が西洋の本を読むだけで西洋について論じる。アメリカへ行ったことのない人間がアメリカ文学の専門家で通る。そういうところがあるね。知識というものはそういうものだという考えがあるから、逆に言えば日本の現実について研究しなくても済む。つまり知識が主としてネット(*読書)から得られるので、現実(*事実)にぶつかってそこから出て来るものではないのだね。(後略)」

小林「感覚の鈍りだ。はっきりものを見ないのが根本だ。」

三木「その見ているところから、ものを考えるということが実験的精神というものじゃないかね。」

(中略)

小林「実証精神というのは、(中略)なにもある対象に向かって実証的方法を使うということが実証精神でないよ。自分が現に生きている立場、自分の特殊な立場が或る仕事(*学問)をやるときにまず見えていなくちゃならぬ。俺は現にこういう特殊な立場に立っているんだということが或る仕事(*学問)の仕掛けにならなければいけないんじゃないか。(中略)そういうものを僕は実証的方法というのだよ。」

三木「その通りだ。精神とか態度とかの問題だね。誰でも自分だけがぶつかっている特殊な問題がある。そういうものを究めてゆくことが仕事というもの(*学問)だ。ところが仕事(*学問)というものは何か決まったものがあるように考えられている。(後略)」

(中略)

小林「話は違うが、どのくらい人間というものは、いろいろ夢を見たがるかということが、僕は近頃なんとなく分かってきた。齢をとるとーーそんなこと言う齢ではないんだが、、、死期が近づくと、、、。やはり死期というのは確かに近づいておるのだね。妙なことだ。そんなこと別に考えないけれど、やっぱり死期というものはちゃんと近づいておるのだね。」

三木「遺書を書く、遺言状だね、遺言状を書くという気持ちは、今の人(*作家)にもないね。」

小林「ないね。」

三木「これを一つやって(*書いて)しまえば死んでもいいという。」

小林「実際ないのだよ。」

三木「僕なんかもこの頃よくそういうことを考えるね。これ一つやって(*書いて)おけば死んでもいいという気持ちでやらなければ(*書かなければ)駄目だね。実際いつ死ぬかわからんのだからね。というのは、すべてのものが現象的になって、形而上学的なものが失われてしまったのだ。永遠というものを考えなくなっている。」

小林「そうだ。僕なんかもそう思っているのだけれど。永遠の観念というものがなければ、芸術もなければ道徳もないと思っているのだ。そういうような考えは青年時代に懐いたけれども、僕はいろいろなことで自信がつかなかった。段々自信がついてきた。そういうものが一番本当だということが、、、。一番そういうものが確かだ。本当に空想じゃなく確かだな。そういうことに段々自信がついてきた。」

三木「進歩の思想に立つと、どんなことでも少しずつやればいいということになる。十あるもののうち今日は一つ書いておいて、明日また一つ書けばいいというような考え方が毒していると思う。これでおわりということになれば、十もっておれば十出さなくちゃならぬ。これは生活態度においてもそうだと思う。」

小林「そうだよ。例えば弾圧ということを言う。どうしてそんなことを考えて、自分が十五年先に死ぬということを考えないのだ。十五年先に死ぬということは大弾圧でないか。そんな大弾圧が必ず十五年先に来るのを知らないで、政府が何を弾圧したということの刺激で何かの思想が起こっているのだよ。まあ言ってみれば、そういう風な思想の浅薄な起こり方、それがいやだね。現代の思想は、いったん石器時代に戻って、またそこから出直す必要があるとさえ言いたいくらいだよ。」

三木「ある人がいて、弾圧されるかもしれないと考えるだろう。その場合に、これ一つやって(*書いて)おけば弾圧されてもいいと思ってやる(*書く)か、あるいはまだまだ弾圧されないかもしれないというような気持ちが底にあってやる(*書く)か、その点だね。弾圧されるということを本当に身近に感じておれば、これ一つしかやれない(*書けない)と命がけでやる(*ものを書く)。そういう気持ちになってくれば日本の文化も立派になるというのだろう。」

小林「文学者や思想家が政治的関心を持つことは結構だが、関心を持つと考え方まで政治的になるということはバカバカしい。政治家がさしあたり大切なことだけを考えるのはよいが、思想家がおよそ思想上の問題でさしあたりの問題でさしあたり大切なものは何かなぞと考えるのは止めたがよい。話がおめでたくなって、議論がこんがらがる以外に何の益も断じてない。」

三木「結局便宜主義ではほんとの文化は創られない。」

(後略)

-

個人的にはこれひとつ描けば死んでもいいわって思えるところにちっとも近づけないことに日々ふるえてるわ。

| 日記 | 00:52 | - | -
将来のこと
@ishiki_hikuiyo: 祖父が『戦争はある日、急には始まらない。情報や武器の規制や緩和の約束や法律がいろいろと作られてきたら気をつけなさい。また国の代表が日本を称賛し始めたら注意しなさい。法などが国民を制圧するような形で可決し出したら何も言わず国を離れなさい』と言っていたのを思い出して最近怖い。

-

というツイートがあった。
海外脱出、賢い人は考えてるよね、当然。
戦争こわいってだけでなく、暮らしにくくなっていく日本の姿もあると思う。
震災の打撃が大きくて足元ぐらぐらで、たまたま当たったオリンピックで元気なふりしてみるけど結局は戦争にでも関わらないと破産。(ってわけでもないんだろうけど、その流れ)

戦争しようとすまいと、暮らしにくい日本から賢い人たちが国外に流出すれば国力が細る。教育もひどいから日本は優秀な人材が流出しやすくなるのかも。
移民でそれを補えばそれはそれでうまくいくかもだけど、やっぱり安定するのには時間かかりそう。

どのみち世界も変わっていくし、いずれ日本人はアイデンティティのあり方も変化するときが来ると思う。
この状況、日本を出るか残るかはそれぞれだと思うけど、国内外、地域間それぞれ繋がって、ある程度お互いが当事者意識持たないと日本危うくない?それとも国なんていらないかな。
愛国心も単純ではないと思う。戦争になっても、移民が増えても、敵あっての愛国心じゃほんとのアイデンティティとは言えない。

原発避難地域の双葉町は、役所機能を他所に移して、土地を持たない概念的な町になった。双葉町出身者だというアイデンティティだけが町民を繋ぎとめる町これからの日本のヒントのひとつになりうるのかなと思った。
| 日記 | 13:26 | - | -
イスラム国へのコラ画像から。

後藤さんたちの件は、収束しないうちは触れないのがいちばんだと思うけど、付随して出てきたコラージュ画像について。

コラージュ画像のニュースを見て思わず、はっとした。
事件とは別のところで、心が躍ったというか。
無条件に「いまを浮き彫りにしたもの」に気持ちが反応した。

「日本人はここまで感情が劣化している」。
他者の気持ちに共感できない、しにくい、いまの日本を、なんていうかものすごく直接的な感じで表現したと思う。結果的に。

やったのは一部の劣化の激しい人たちだと思う。

ただ、そのほんの一部がネットによっておそろしく肥大して社会の空気に影響してる感じ。

政府のオラオラな気分が無自覚のうちに火だねを作ってしまう、
そんな今回の状況も、政治家の「感情の劣化」が一因だと思えば、コラージュ画像の一件とつながって見える。

この民度にしてこの政府。矛盾がない。
 

海外一部メデイアでは、このコラージュ画像がテロリズムの深刻性を破壊して、結果良かった、と解釈するところもあるらしい。
たしかに結果的にはそういう部分もあると思う。どこか痛快だったとも思う。

けれど、もう少し冷めて見れば、もちろんこれは、意図された、アーティスティックな(固定観念を崩壊させる)活動なんかではなく、一部のネットユーザーが現実と虚構の境界を失っているせいで、ほとんど偶然に起きた社会現象みたいなものだと思う。
(現実と虚構が並列するときの滑稽さが、テロリズムの深刻性を破壊したわけで、もしかしたらこのことを直感的に狙った人もあったかもね。でもやっぱり偶然性が強そう。)

現実と虚構。
文章や画像で構成されたネット上の虚構は、あくまで現実の部分的な”解釈”であって、それを現実と誤認すると、現実に対する理解や共感の深度はとても浅くなる。すぐに底にぶつかる。まして、その虚構を国語的に(または本質的に)十分咀嚼できてない場合は、目も当てられない。

現実に対する理解、共感の欠乏したネット世論が、現実の社会、政治を突き動かしているとしたら、こわい。

| 日記 | 19:05 | - | -
目は三つ。今のとこ。

それじゃあもしかして、こういうことですか?

ぼくは論理の目と実存の目をもっているけれど心の目をもっていない、

あなたは実存の目と心の目はもっているけれど論理の目をもっていない、と。

| 日記 | 03:07 | - | -
極楽回帰

「回帰」という言葉が浮かんで「原点」を探していたら「極楽」が浮かんだ。

極楽について検索していると、ケルトの「メルグル」というものに遭遇した。「喜びの平原」という意味らしい。

CLANNADというゲームの話みたいなんだけど、ゲームをはなれて「極楽浄土」と「理想郷」の違いを説明しているともいえるもので、その内容が腑に落ちる文章だった。

http://ahou2chome.sakura.ne.jp/misc/zakkisel/051001.html

要約すると、「メルグル」というのは一見、天国、極楽浄土のようなところだけれど、ケルト神話の一節によると、「永遠の命・永遠の若さ・永遠の美を手に入れるところ、食べてもなくならないリンゴや、女しかいないところ」で、天国、極楽浄土を想像するときに、例えばある宗教を信仰していた人が「神」によって生前の罪過を洗い流され、イノセントな状態であるというイメージがあるのに対して、むしろ逆の、欲望にまつわるところである、と言っている。

あらためて「極楽浄土」というものを考えてみると、案外「理想郷」との違いを意識していなかったことに気づく。

「食べてもなくならないリンゴ」は、働かずして食べ続けられる魔法のリンゴだ。たしかに働かずに食べれるなら、極楽と言えそうだけど、本来の極楽はそういうことではなくて、いっそ、「楽」の字が付いているから混乱するので、楽をとって「極」とだけすればいいんじゃないかとも思う。

少なくとも、「原点」というものを探していたときに浮かんできた、僕のなかの「極楽」とは、「働かず食える」意味合いの「楽」な場所ではない気がする。

「メルグル」についての文章にもあるように、極楽浄土は「イノセントな場所」であると考えている。

じゃあ、そのイノセントとはなにか?その詳細は?ということになるんだけど、僕は「原点」からそれを思い浮かべたように、人間の、もっといえば生命の「初期設定」的状態じゃないかと想像する。

そしてその「初期設定」的状態とは、動物も植物も人間も(「神」的な秩序のもとに)一直線上に並列して見なせる状態じゃないかと想像する。

じゃあ、そういう状態がどういう状態?かというと、人間が感情や打算抜きに目前の案件の本質に沿って行動できる心的状態じゃないかと僕は考える。

それは、一般的に思い描かれる子供の行動のイメージにも似ている。

その状態は筋肉の弛緩した状態というよりは、躍動している状態だと思う。

以前、軽い地獄絵図的な絵を描いたことがある。そして、いま自分なりの「極楽」をイメージしてみて、その基本のところの似ていることにびっくりする。

地獄のような場面でも生きようとする人たちを描こうとした”地獄絵図的”な絵だったけれど、彼らの姿勢と、極楽で生きる人たちの姿勢が、僕のなかでまったく同じイメージになっている。

死んだあと行くところなのだから「極楽で生きる」というのはヘンかもしれないけれど。

「天国も地獄も気の持ちよう」みたいなことではないと思う。「表裏」ということかもしれない。

そう思うと、僕が子供のころから持っている「極楽」のイメージは、昔のおじいちゃんやおばあちゃんが「ごくらく、ごくらく、、」と唱えるあの「極楽」のイメージであったのかなあと思う。

あらためて、古い極楽浄土図や天国についての宗教絵画を見てみると、そのどれも、神たち(超人的なイノセントで神化した人たち)の躍動的な姿が写してあった。

| 日記 | 04:41 | - | -
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