木皿泉という人の「昨夜(ゆうべ)のカレー、明日のパン」という小説を読んだ。
娘と行った図書館で、娘が本を探しているあいだ、借りるつもりもないのに手に取ったこの本の冒頭に出てくる女のあだ名が「ムムム」というのにひかれて、なんとなく借りた。
「ムムム」というのは、笑えなくなった女にお隣さんがつけたあだ名で、『機嫌が悪いのなら「ムッ」とした顔をすればいいのに、それを隠そうとするものだから、怒ったような困ったような眉をひそめたムムムという顔』になるから。
なんてことない小説だった。というと失礼だし、話も終わってしまうのだけど、なんてことない小説は、好きだ。
映画とかもそうだけど、小説も、割と冒頭のあたりで(たぶん自分にとって)おもしろいかどうかの判断がつく。言葉にするなら「辻褄があってる」というような。
地面があるから、足でその地面を踏みしめて立つことができる、そんなような当たり前のこと、そういう、なんてことない辻褄なんだけど、その積み重なりでできた、なんてことないもの。
「作ってるな」と白けてしまうものは、どこというのでもなく、でもはっきりと、辻褄が合ってない。創作なのだから基本ぜんぶ作ってあるのだけど。
「作って」ないもの、なんてことないもの、ただそれだけのことじゃないのかもしれないけど、そういうものにふれると、自分もなんかやってみよう、やれるかも、というような意欲が沸いてくることがある気がする。なぜだろう。
件の小説の中で、主要人物のテツコとギフ(義父のあだ名)は、夫(ギフには息子)を病気で亡くすんだけど、その夜の暗い帰り道、『寒かったし、悲しかったし、二人とも疲れきって口もきけなかった。その時、行く先にポツンと明かりが見えた。近づくとパン屋だった。』
『もう夜の十二時を過ぎようとしていたのに、中では昼間のように人が働いていた。テツコとギフが入ると、「もうすぐ新しいのが焼き上がりますよ」と店の人にいわれ、二人は待った。その時の二人は待つのに慣れきっていた。病院のあらゆるところ、検査結果を聞くための部屋や支払所、手術室、詰め所などで、ただひたすら待っていたからだ。』
『パンの焼ける匂いは、これ以上ないほどの幸せの匂いだった。店員が包むパンの皮がパリンパリンと音をたてたのを聞いてテツコとギフは思わず頬笑んだ。』
『悲しいのに、幸せな気持ちになれるのだと知ってから、テツコは、いろいろなことを受け入れやすくなったような気がする』
どことなく、この一節と意欲の源(みなもと)がリンクする。
AIの発達がすごくて、囲碁なんかも人間棋士のおよびもつかない棋譜で進んでいくらしい。無意味にしか思えない打ち手が最終的な段階でようやく理解できるというような。
だれかが「経営なんかもそうなるかも。意味わかんない合併やらなんやらが、最終的には大成功みたいな。」と言ってたが、創作の分野だってそうかもしれないと思う。
人間のすることは、創作だって、解析可能な過程を経たもののはずで、その「結果」においては、AIは人間を凌ぐと考えるほうが自然に思える。
でも、いくら解析可能であっても、人間にとって、創作にまつわる結果はあくまで結果であって目的ではない。忘られがちだけど。
創作する理由ってなんだろう、という本質的な問い。
目的なんかないんだよね、っていう繰り返される答え。
『悲しいのに、幸せな気持ち』
なんてことないけど、無意味かもだけど、やりたい気持ち。
件の小説の、夕子(テツコの義母、ギフの妻)の病床での気持ちの描写。
『今や、(庭の)銀杏の木と自分に境目はなくなりつつあった。モノというモノの名前が全て消え去ろうとしている。いつか、一樹(息子、テツコの夫)を抱いて庭を見ていた時に感じた、あの不思議な心持ちだった。それは、借りていたものを一切合切、ようやく返してしまったような気持ちのよさだった。」
名前という「意味」が、ときには目的にさえなったりもするのが社会なのかなって思うことがある。
そういう借りもの、かりそめを返してしまうと、あとに残るのは、意味やら目的ではなくて、さて、なんだろう。