人間は、社会性を獲得する過程で、概念によって解釈されない視点を持ち続けることが非常に困難であり、中には生来的に直視を避けられない性質の人々がいることも容易に想像できるが、いづれ後天的でも先天的でも、直視することの重要性に自覚的であればあるほど、また、人間存在の根本的な苦痛とその不可避性に自覚的であればあるほど、この苦痛に正面から耐えることの困難さに対してもまた自覚的になるだろうと思う。
そして、その困難さと共存することを可能にするのは、いかなる技能でも理解でもなく、ただただ困難さに立ち向かう”勇気”のみなのではないだろうか。
直視するとは、もともと瞬間ごとに集中することとほとんど同義で、瞬間ごとに対して集中することは、目的がなんであれ、その瞬間に最良の結果をもたらすおそらく唯一の方法のように思う。
その”見る”ことのもっとも根本的な到達点は、宇宙の真理を見ることであり、そのかぎりにおいて、生命という存在の存続不可能性を知り、生命の奇跡に触れ、その生来性を知るのではないか。つまり、生命とは決して覆らない”死”に抗うものなのだと。
生命とは宇宙の摂理に反して存在しようとする異分子である。その宿命に則って、人間は宇宙の摂理に抗って生きようとする。生き延びようとする。そこに苦痛もまた生まれるのは必然ではないか。
この点において、人間的生活の原点を見るように思う。

今年になって描きためている鉛筆画をもとに、ZINE(手作り本)を制作しています。
そのZINEの原画展として、鉛筆画を展示販売します。
あわせてZINEも販売します。
絵画というよりイラストだと思います。
そのイラストを一枚一枚描き連ねることで生まれる”なんとなく”なストーリーをまとめてZINEにしました。
イラストというより漫画かもしれません。
言葉のない紙芝居かもしれません。
僕のZINEはわら半紙を二つ折りにしてプリントして、小学校の卒業文集みたいです。
絵の内容はともかく、やさしい風合いの冊子になります。
それだけでは心許ないので、その文集に、表紙に手描きのワンポイントを描いたりします。
などと言って、現時点、実はまだ一冊も完成しておりませんが笑。。ガンバリマス。
ぜひ、ご高覧ください。
サル
SAL展示販売会「THE HANGED MAN」
4月17日(火)〜5月2日(水)
@東京中目黒ハトスバー
http://hatosbar.com/top.html
目黒区中目黒1-3-5 プリンスコーポ106
03-6452-4505
Open Hour:
火曜日-土曜日 [Cafe Time] 13:00 - 18:00
火曜日-土曜日 [Dinner Time] 18:00 - 24:00
定休日:日曜日・月曜日・祝祭日
けど近ごろは、絵ってじっくり見ても仕方ないねって感じることがある。
そういう感じ方って、絵の展示してある空間を匂いでも嗅ぐみたいに視覚的に”感じる”。
視覚ってぼんやり見ているようでも、経験的に見たことのある景色って無意識に”流して”るけど、経験的に見たことのないものには不思議と自然と意識がいく。
そのときの視点って純粋に感覚的だといえると思うんだけど、この視点は”見る”というより”感じる”と言ったほうがいいかもしれない。
空間を感じるわけで、そこに異質なものを視覚が発見すると心に直接訴えかけてくる。これは漠然とした感じ方にも思えるけど、案外微細に視覚の異質さって感応できるもので、たとえば線が少しでも歪んでいると違和感を感じることみたいに。
そこに意識があると、とても豊かに感じ取ることができる。
その感じ方に比べれば、絵の子細を鑑賞する楽しみは枝葉だなって思える。
もちろん枝葉の鑑賞もとっても楽しいけど。
たぶんこれは他のことにも当てはまると思う。
”ボクサーの動体視力”なんかも同じことだと思う。
人間は自分の興味のあることに対して、とっても微細に世界を感じるようになっている。
そしてそれがその人間の世界観を形成すると思う。
忘れたらまたやりなおし。
痛みを忘れずに上を向かねばね。
痛みを忘れないでいること。
痛みを感じ続けること。
覚醒しつづけること。
その方法は。
来月、恒例になりつつある中目黒ハトスバーでの展示販売会があります。
今回は「THE HANGED MAN」(ザ・ハングドマン)というタイトルで鉛筆画を展示販売いたします。
このハングドマンというのは、このブログで少し前にお話したんですが、「言葉のない紙芝居」みたいなつもりで描きつなげている連載物(?)です。
絵で連載というのもヘンなんですが、自分ではマンガでも描いているような気分で楽しんでいます。
連載といっても、とくにはっきりとしたストーリーはないんですが、見る人が自由に物語を感じてくれたらいいなあと思いながら描いています。
今年の正月明けから、なんとなく描きつけていた絵を続けて描いてみようと思ったのがスタートなんですが、近ごろ、これまでに描いたちょうど半分ほどを、一冊のジンという冊子にまとめてみました。DIYにて。
自分では、ますますマンガっぽい展開であるよ、と思いながら、ふふん、という気分になって楽しんでいるのですが、子どもが作ったマンガ本のようで、なんともちんちくりんなんですよね。
ところで、このDAILY WORKERSというパブリッシャーのことを少し説明してみます。
ジン(ZINE)というのは、マガジンのジンのことで、カウンターカルチャーというかストリートカルチャーというか、そんなものに詳しい方ならご存知なんですが、独自な活動を展開しているアーティストたちが自分の表現物をコピーして簡易の冊子を作り、それを自分たちの周辺に配り始めたことから始まったそうです。
DAILY WORKERSの主旨については、上記のサイトのトップにて説明してあるので割愛いたしますが、僕個人は、複数のアーティストが自由な発想でジンを制作しながらも、それらをひとまとめにして、より大きな何かを表現しようとしているところに賛同して参加しています。
しかも、その表現者は絵描きに止まらず、スケーター、詩人、また、特に肩書きを持たないけれど、街で活き活きと活動している人たちが参加しています。
表現には様々な形態がありますが、その大きな目的のひとつは、生きることそれ自体を楽しもうとすることのように思います。
生も見つめること、もっとシンプルにいえば、生きる、ただ生きる、生きることを楽しむ、そういうことこそ表現することのもっとも根源的な動機ではないでしょうか?
シンプルに生を見つめれば、社会の矛盾や欺瞞に向き合わざるを得なくなるのは、生を突き詰めて考えたことのある人なら皆、共通に感じる事柄だと言えるでしょう。
しかし、その社会の抱える矛盾や欺瞞は、そのまま自分自身の存在の矛盾、欺瞞でもあります。
それは排除すべきものというよりは、共存すべきもののように僕は思います。
しかしただ漫然と惰性で共存するわけにはいきません。
葛藤し、煩悶しながら、立ち向かい、主張しながら、共存するべきものでしょう。
DAILY WORKERSの主旨もこのところに根幹があるとぼくは考えています。
僕たちはこの激動の時代を、同時代人として生きています。自分たちのこの社会をシンプルな視点で見つめるときに顕れてくるなにかしら。それは打破すべきものであったり、守るべき大事なものであったりします。
そういったもの、世界に対して、僕たちはある程度、力を合わせて乗り切るべきなんだろうと思う。
それはなんらかの権力構造に巻き込まれるようなシステム的なものではなく、個人が自立したうえでこそ成り立つもの。それは僕たち市民がもつべき力、これからの社会を変えていく力だと思います。
僕たちはこの激動の時代にもう一度、生活、生き方、社会のありようを考えなくてはならない。そして、僕たちなりのライフスタイルを発明していかなければならない。
政府にも社会制度にも頼らず、僕たち市民自身の力で。
そういったことがこのDAILY WORKERSの大事なテーマのひとつにもなっていると僕は思っています。
表現者の金銭的なサポートということもあるけど、パトロンやマネージメントは表現者に対してある程度、思想や好みを反映させることができる。
(作品を買うという行為には表現者に対して間接的な拘束力があってそれを個人の嗜好のために反映させるのがパトロンで、利益目的で時代の需要を表現者に反映させるのがマネージメント。)
そこには相互関係というか、補完関係というかそういう関係があってしかるべきで、時代を表現しようとする表現者のときに切実な欲求が、そういったパトロンであったり、マネージメントであったりという人材のサポートがを得てはじめて、表現は社会で成就する。場合がある。
時代のシーンは、ひとりでにシーンたりえて時代を変えることができるわけではない。
同時代のたくさんの表現者によって表現され、コミュニティーによって共有されはじめた有象無象が、実際に社会全体になにかしらの影響をおよぼすようになるには、絵画でいうところのパトロン、マネージャーのようなサポート的人材が必要であるように思う。
それがジャーナリスト、ジャーナリズムではないかと。
ジャーナリズムといっても、報道、ルポのようなものもあれば、批評、評論のようなものもある。
どちらも必要なんだろうと思う。
ルポライターもあるだろうし、評論家もあるだろうと思う。
目撃者というのかもしれない。
オブザーバーというのかもしれない。
職業的な。
単にカメラマンとか、ライターというのかもしれない。
ジャーナリズムというのは思想と密接な関係があると思う。
”思想”というと誤解のある言葉だ。
そもそもかたちのない概念だからだ。
良くも悪くも、ジャーナリズムは思想を持つ。
たとえば、思想を持たない新聞にジャーナリズムはないと思う。
ジャーナリズムとはおそらく思想であり頭部である。
表現者は感覚器であって思想を伝える者ではない。
(思想をもつ表現はもはや思想である。)
けれど、感覚的である”表現”の奥底にはいつでもかならず思想が含まれてある。
言葉になる以前の思想があって、それが感覚にはたらきかける。
そこには本能があって思考がある。
思想はいつでも言葉として発せられる。
思想は概念だからだ。
思想はユートピアを求める精神、時代を変える精神だ。
だから思想はときに暴力的であって依存性も強い。
けれどそういった”思想”をジャーナリズムは持たなければならない。
そして時代のシーンに名前を付けなければならない。
名前を与えられたシーンは、それでようやく社会の中でかたちを持ち、実体を認められる存在となる。
そういう役目をジャーナリストは持っていて、そういう重大な責任を持っているように思う。
破綻して停滞した時代の空気をシーンが変えていく。
そのシーンはジャーナリズムによって名付けられる。
そのジャーナリズムは思想によって支えられ、結局その思想が社会の行く末を決定していく。良くも悪くも。
このジャーナリズムという言葉、もしかしたらマスメディアとイコールだと思われるかもしれない。
けれど、これからの時代はこのジャーナリズムはコミュニティーごとに持つことが可能だろうと思う。
むしろ各コミュニティーはこのジャーナリズムを内在しなければいけないんじゃないだろうか。
時代のシーンを目撃し、翻訳し、報道するジャーナリズム。
そこに自ずと発生せざるをえない、思想。
たくさんのサークル的コミュニティが接近したり融合したりしながら時代のうねりみたいなものを作り出し、そこにさらに大きな思想が生まれる。
その思想が時代を変え、これからの社会を形成するにちがいない。
思想は、僕たちの頭の上のほうで、知らないだれかが勝手にやってる卓上の論争なんかとは関係ない。
関係あるのは、むしろ僕たち一人ひとりの生活とであり、自由な感覚を底辺で支えるポリシーと関係のあるものだ。
それを、どこかの知らないだれかに明け渡すわけにはいかない。
自分の思想は自分で守らなければならない。
シーンはファッションではない。
シーンは市民がもつ武器であり、権力者から未来を取り戻す手段だ。
ぼくはこれをジャーナリズムの立場から書くのではない。市民のひとりとして書くのだ。
真のシーン、真のジャーナリストを渇望するひとりとして書くのだ。
この二ヶ月で、かれこれ100枚近く描いているんですけど、当初A5サイズくらいの紙に描いていたときには一日に4,5枚描けたんですけど、今はその倍の大きさの紙を使うようになって、一日に2枚描ければ精一杯なんです。
色も白黒で漫画でいうところのベタ塗りもほとんどないのに、ずいぶん時間がかかってます。
漫画家さんはすごいな〜なんて、あらためて思ったりするんですが、実際、漫画家さんはすごいですね。よくもあれだけ毎日、毎週、描けますね。何年も。うん。
僕も漫画家さんみたいにがんばって続けてみたいな〜と思うんですが、あれ?それでいいんだっけ。まあいいんですが。
自分ではこのシリーズを「STORY CARD」と仮に呼んでみようと思っていて、それで今描いているお話は「THE HANGED MAN」なんです。
一応ストーリーはあるんですが、自分でも次の展開を知らない。
前後の絵とのつながりだけで描いているので、大筋のストーリーは決まってないんです。
前後のつながりといっても、まったく作者の勝手放題で、場合によっては技法的なつながりだったりするので、単純にお話が展開するわけではないし、まあ、よく言えば感覚的。ですか。
そんな話の進み方でいいのかな?とも思うのですが、でも前後のつながり(というか必然)を大筋にとらわれず描くという面白みも、きっとあるよねと思ってるんです。
その面白みが本人以外にもきちんと伝わるには、表現上の諸々が上手くいかないとね。続けてみないとね。
それにしても、こうして描いていると、自分は絵の修行が足りないなあと思いますね。
下手なのはある程度仕方ないんですが、とにかく遅いなあと思います。
漫画家さんの仕事に比べても仕方ないんですけど、もう少し早く描けたらね。
ところで、なんとなく仕事量ということを思うんです。
絵にしろ漫画にしろ、そこに含まれる熱量みたいなものってありますね。それはその作品に注がれた仕事量にある程度比例しますね。
仕事量が大きいほど訴えかける力は単純に強まると思うんですが(それが訴える力のすべてというわけじゃないけど。)、たとえば大きな絵を描けば当然、時間も多くかかって仕事量も増えるから単純にパワフルだったり。
同じ要領で、小さくてもパワフルにしたいなら、枚数を描くという手はどうかしらん。
そう思って、そもそもこの紙芝居絵を始めてるんですが、漫画の熱量なんか、そう考えるとすごいよね。アニメもやっぱりすごいよね。
でも、漫画もアニメも、スカスカのもんはスカスカですけどね。
そういうものの中身を見ればたしかに一枚一枚がテキトーなんだから仕方ないですね。
スカスカ漫画は何がスカスカ、テキトーでしょうか。
たとえば絵画に戻っていきなりなんですが、ダリの絵なんか僕はある意味、絵画の最高峰だなあなんて考えたりするんですが、絵のサイズが小さいからと言って訴える力が小さいとは限らない。当然。
小さいぶん細密に描かれているからということもあるんでしょうが、大事なのはたぶん絵の細密さというより内容の詳細さ。
つまり、そこになにが記述されてあるか?という詳細さ。それが詳細に述べられてあるから、リアリティを確保できてあるんであって、たとえばパースどおりに、また細密に描かれてあるからリアルというわけではないですね。
絵の中で、なにが”リアル”かというと、辻褄、でしょうかね。必然性、というのかもしれない。
必然性なり、辻褄がどこまでも合っていれば、その絵は強いリアリティをもっているといえるわけで、そういうものがあれば、たとえ空想的で非現実的であっても実際に起こり得る現実性をもつ。
それは物理的な現実性とは別のものですけどね。
話が熱量から脱線しましたけど、小さいからといって、熱量が低いかというと、今度は仕事量とは別個の話になってしまいますね。なんだろ?熱量に対抗して、説得力量?
などなど。
いろいろなことを思いつつ、紙芝居絵なんです。
空想的で、筋書きもない、絵なのか漫画かもわからない。
どうなることやら。